韓国人に知ってほしい「台湾抗日の歴史」

2019年03月06日 06:00

3月5日の産経デジタルは「誇大数字“独り歩き” 三・一独立運動の死者数 文発言は国家機関の調査とも乖離」との見出しで、文在寅韓国大統領が先の三・一節の演説で同運動の犠牲者を7,500人としたことに触れ、それを誇大数字と報じた。

記事よれば7,500人は大韓民国臨時政府第2代大統領の朴殷植が「海外で独立運動をしていた際に伝聞情報に」基づいて著書に書いた数字で、朝鮮総督府が当時集計した数字とは13~14倍、本年2月公表の韓国国史編纂委員会の集計値とは8~10倍の差があるそうだ。全く呆れる話だ。が、この数字の件は語り尽くされているので本稿では措く。

朴殷植(Wikipediaより:編集部)

いったいある国の合法な政府を転覆しようとすれば政府は当然にそれを鎮圧する。混乱で死傷者が出ることもあろう。非情なことだ。が、仕方ない。日本による台湾領有と韓国併合は共に合法だった。される側はさぞ悔しかろうし悲しかろうし情けなかろう。が、仕方ない。合法なのだから。

“朝鮮半島の南北分断は日本のせい”との論も良く耳にする。日韓併合を非合法とみればそういう論もあろう。が、それは“非行少年が親に向かってどうして俺を生んだ”と詰るようなものだ。分断の理由は米ソの対立と朝鮮左右両派の権力争いにあったのだし、彼らが統一政府を建てるチャンスだって何度もあった。

とは言っても三・一運動の死者が7,500人でなくたとえ1,000人に充たなかったとしても、彼らが歴史の犠牲者であったことに変わりない。それは紛れもない明治日本の負の遺産だ。彼らを追悼するのは日本人として当然だろう。・・・と言うその口でその数を比べるのも不謹慎だが、台湾の抗日犠牲者は韓国の比でなかったようだ。

そこで台湾の話になる。1683年から1895年まで台湾を領有した清朝はそこを「三年小乱、五年大乱」と警戒し、一人の満州人官吏も派遣せず、漢人官吏の任期も短期に限った。一般漢人の渡台も家族を人質にするため単身男子のみ許した。結社を作って反乱するのを防ぐためだ。それでなくとも鄭氏時代に渡台したのは反清復明の徒だ。また反骨精神に富む客家が多い広東省からの渡台許可が出たのは最も遅い1760年だった(「台湾」(中公新書)伊藤潔)。

こういった素地のある台湾人が日本の進駐を袖手傍観するはずがない。日本に割譲されると聞くや清朝最後の巡撫唐景崧を総統に「台湾民主国」を建て、旧清軍を主力に基隆港や淡水港の守りを固めて抵抗の構えを見せた。が、例によって中国人は逃げる。初代台湾総督樺山資紀が座乗した横浜丸が基隆港外に姿を現すなり唐ら清軍幹部は大陸に逃げ、「台湾民主国」は数日であえなく崩壊した。

が、台湾人は諦めなかった。清朝の苛斂誅求を掻い潜って地位を築いていた土豪や土匪として反抗してきた者らはゲリラ化して総督府に抵抗した。彼らを後年の親台湾派は義民あるいはゲリラと呼び、親台湾派でない者は土匪と呼ぶ。敢えてその違いを言えば市民生活へ溶け込み度合の差だろうか。

以下に史明(施朝暉)の「台湾人四百年史」(新泉社)から抗日振りの一端を引いてみる。

民主国の呼び掛けも漸く台湾の一般民衆に浸透しつつあり、そのうえ日本軍の砲火殺戮が否応なしに台湾人の敵愾心を掻き立て、各地で義民の自衛組織を持つようになった。伝統の台湾民衆による外来支配反対の闘争が始まる訳である。中でも新竹の胡嘉猷、苗栗の呉彭年、鹿港の許聲清、雲林の簡清華、台南曾文渓の林崑崗などは有名で、その部隊も百人から千人までとまちまちだが地理上の熟悉を利用して勇敢に侵略者に立ち向かっていった。従って台北から南下した日本軍は各地で義民軍による郷土保衛の抵抗に悩まされねばならなかった。

台湾人の抵抗の激しさを伝えるエピソードの最たるものは、何といっても北白川親王の台南における客死だ。日本ではマラリアによるものとされるが台湾には今も次のような伝説が残る。これも史明を引用する。

日本軍は10月22日に台南に入城しついで29日に安平を占領した。これで軍事的には台湾の要所は全て日本軍の手中に落ちたのであるが、台湾占領の総指揮を執ってきた日本皇族の北白川宮は10月28日、台南で陣没した。日本政府の発表によれば台湾風土病のため死亡したとある。しかし台湾人の言い伝えはこれとは異なり、台南市北辺の曾文渓を渡河して間もなく、草むらに潜伏していた台湾人ゲリラに襲撃され、竹竿の先に鎌を縛り付けた俄作りの武器で首を傷つけられて落馬し、重傷を負ったのが原因となって台南入城後、斃れたといわれている。

1985年、台湾征討近衛師団長として出征した澳底で露営する北白川宮能久親王一行(乙未戦争、Wikipediaより:編集部)

その後もゲリラ化した台湾人の抵抗は永らく続き、この史明や「正伝後藤新平」(藤原書店)の鶴見祐輔や「近代日本と植民地」(岩波書店)の大江志乃夫の記述などを総合すると概ね次のような激しいものだったらしい。まさに戦争だったと言っても良いくらいだ。

  • 日本は軍人軍夫を一時は最大76,000人も投入した。
  • 1906年4月までの土匪やゲリラの殺害と処刑数は20,000以上に上った。
  • 土匪やゲリラの討伐には第5代佐久間総督までのおよそ20年間を要した。
  • この間の日本人戦没者は日清戦争の8,400人を上回る9,600人に上った(多数の病没を含む)。

1915年に日本人95人が殺害された西来庵事件で、台南刑務所より台南地方法院に押送される逮捕者(Wikipediaより:編集部)

一方の三・一運動、筆者はまだこれを云々できるほどには勉強していない。が、「これを読めば韓国も日本も好きになる」との副題が付けられた「日韓共鳴二千年史」(明成社)で編著者の名越二荒之助は以下のように書いている。因みに、台湾にも深い思いを寄せる名越には「日本と台湾・交流秘話」(展転社)などの台湾物も多数ある。

私はこの(独立の)要望書に反論したり異論を唱えたりする気持ちはありません。思い切った主張をしたことに小気味良さを感じます。各地で発表された「宣言」や「檄」の内容について議論するよりも共通して欠けている点を指摘せずにおれないのです。それは朝鮮が日本に併合され独立を失うようになった原因の究明や反省がなされていない点です。「独立」をいかに訴えても一国の独立は文章や宣言や示威行為によって実現できるものでないことを知って欲しいのです。独立は民族が挙って諸条件を具体的に克服することによってもたらされるものです。

「海外で独立運動していた」朴殷植のことと言い、上述の台湾人の抵抗振りとはだいぶ違うようだ。まさにこの点が、建国の正統性に関して韓国が北朝鮮に対して懐くコンプレックスといえよう。

さて、今では最たる親日国台湾と日本との間にこのような激烈な歴史があったことを我々日本人はほとんど知らない。筆者は「日本統治下にあった台湾と韓国、どうして韓国だけ反日なのか」で書いたように「台湾の親日は中国国民党(外省人)による圧政の反動」と思う。が、一方で「台湾と千島、その法的地位」で台湾人の中で宥和が進んでいることに触れ、「民主化が進んだ李登輝後の台湾では、本省人・外省人とも世代交代が進みそれはそう鮮明ではなくなった」とした側面も現在の台湾にはある。

日本の統治は台湾が51年間(1895-1945)、朝鮮が36年間(1910-1945)だ。15年という差が、世代交替という視点や日本人特有の「水に流す」や「死ねばみな仏様」といったセンチメントが染みつく期間として長いか短いかは良く判らない。

が、韓国の人達にこそ、台湾の歴史(それは350年間の外来政権統治であり、戦後の国民党による二・二八事件の数万人の犠牲者であり、サンフランシスコ条約で独立を与えられた朝鮮と違ってただ放棄されたことetc.)を知り、今日の我が身を振り返る縁(よすが)にして欲しいものだ。

史明(施朝暉)Wikipediaより:編集部

因みに、史明(1918-)は蒋介石暗殺を企て日本に亡命した台湾人の左派独立運動家だ(汗牛充棟の我が友人は池袋で餃子屋をやっていた史明と話をしたことがあるそうだ)。が、彼はその著書で朝鮮と台湾に対する日本の扱いの差(だいぶ朝鮮に厚い)を盛んに嘆じている。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。

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