「即位の礼」への公費支出:天皇は“神”だったのか?

2019年04月05日 06:00

「野球の神様」「漫画の神様」etc

4月1日に新元号「令和」が発表された。改元は天皇の代替わりに行われるものであり、今後、新天皇が即位する5月1日までの間に「天皇とは何か」と言った天皇論が盛り上がるのは間違いない。既に2016年に今上天皇の譲位が決定されて以来、天皇論は盛り上がりを見せているが、それが加速する形になるだろう。

1990年(平成2年)11月12日、即位礼正殿の儀で「おことば」を読み上げる今上天皇(Wikipediaより:編集部)

筆者は「天皇とは何か」と論ずるにあたってまず整理しておきたいのは昭和天皇による「人間宣言」についてである。

言うまでもなく「人間宣言」は「大日本帝国の天皇は現人神」だったという理解が前提にあり、この理解は戦後日本ではしばしば大日本帝国批判に使われた。

「大日本帝国時代の日本はカルトだった」という言説は左翼・リベラルからもよく聞かれる。

しかし大日本帝国時代の天皇は本当に神だったのか。そもそも神とは何なのか。昭和天皇に「人間宣言」を出させたGHQが考えた神はキリスト教の神に違いない。

キリスト教が考える神は我々人間社会を超越した「創造主」である。

しかしキリスト教徒でもない限り日本人でこの「創造主」の概念を理解できる者はどれだけいるのだろうか。

日本では「神」を「創造主」と捉える限り信じがたい「神」が結構ある。良く知られた言葉として「野球の神様」「漫画の神様」があり最近では女性アイドルに対しても「神」(例:神7)の表現を使うらしい。しかし野球選手の長嶋茂雄や漫画家の手塚治を見て「創造主」と捉えるは者はいるのだろうか。ちょっと考えにくいことである。

筆者の世代(83年生)で言えば最近、引退したイチローや松井秀喜、鳥山明が「野球の神様」「漫画の神様」にあたるかもしれないが、筆者はイチローや鳥山明を見て確かに「神」とは思うが何か超越した「創造主」とは思わない。せいぜい「名人」「達人」「第一人者」の類である。

こう考えると我々日本人の考える「神」はキリスト教の「神」とは異なるし、やはり「緩い」我々日本人にとって「神」は「God」ではなく「kami」なのである。

戦後日本では大日本帝国時代の天皇は「God」と同じニュアンスで論じられるが実際は「kami」に過ぎなかったのではないか。管見の限り「kami」の観点から大日本帝国時代の天皇は検証されていない。

政教分離の本質は政治と教会の分離である

新天皇即位に関して「即位の礼」が開催される。この「即位の礼」を巡って左翼・リベラルは日本国憲法で定められた政教分離を根拠に批判している。

「大嘗祭への公費支出は違憲」提訴へ 全国の220人(朝日新聞)

1990年(平成2年)、今上天皇の大嘗祭(Wikipediaより:編集部)

大勢にはなっていないが、これを機会に皇室行事と政教分離について議論を深めることも出来るだろう。

それにしても戦後日本で政教分離ほど歪んだ議論がなされたものはない。

左翼・リベラルは皇室行事を事あるごとに政教分離を根拠に批判してきた。

どうも彼(女)らの政教分離の関心は皇室行事と神道に対してだけでありそれ以外のものには実に甘い。

昨年、伊勢神宮付近にイスラム教の礼拝所を伊勢市が整備することが朝日新聞によって報道されたが(実際は誤報)これは明らかに特定の宗教に肩入れしたもので政教分離に反するものである。

ところが朝日新聞はそのことに触れず「観光客増加に対応」と簡単に報道するだけである。これは朝日新聞の政教分離の関心は非常に限られたものではないかと推測させる。

皇室行事と連動して話題になる政教分離だが、これは西欧で発達したものであり、間違いなくカトリック教会を意識して発達したものである。

古代のローマ帝国崩壊後、ヨーロッパはカトリック教会を仰ぎ見る君主・諸侯から成る封建社会に突入した。この社会ではローマ教皇を頂点とするカトリック教会の存在感は圧倒的だった。政教分離はこのカトリック教会の政治的影響力を排除する目的で発達したものである。だから政教分離の本質は政治と教会の分離であり政治の場から宗教的色彩を排除することではない。

しかし日本の歴史においてカトリック教会に匹敵する存在はあっただろうか。

中世期、比叡山延暦寺の僧兵による集団示威行動は朝廷や幕府を悩ましたけれど比叡山延暦寺が朝廷・幕府を超えた存在になったわけではない。せいぜい外部からの干渉が極めて困難な「聖域」「治外法権」であったことを意味するに過ぎない。

また戦国期には「一向一揆」と呼ばれる宗教勢力による大規模な戦闘が行われたがこれは鎮圧された。

皇室行事が近代的に整備された大日本帝国を「宗教国家」と評価する者もいないだろう。確かに大日本帝国は「天皇主権」であったけれど「天皇親政」は予定していなかったし、

明治維新以来「近代化」に邁進した国家を「宗教国家」と呼ぶのは奇妙なことである。

また前記したように大日本帝国時代の天皇は「God」ではなく「kami」だった可能性が

高い。

以上のように日本では特定の宗教勢力が政治・社会を支配したという歴史はない。

ローマ・カトリック教会を想定して発達した政教分離の思想をそのまま日本に当てはめて本当に良いのか、日本の文化を破壊する根拠に成り下がっていないか、我々日本人は政教分離を今一度、考える必要がある。

何よりも天皇は日本国憲法に基づき「日本国民統合の象徴」であることが期待されている。皇室行事に対する政教分離の強調は憲法で期待された天皇の役割を損なう危険性がある。

皇室行事を論ずるにあたって「日本国民統合の象徴」と政教分離の調和を図ることが憲法学者に期待されていることだが、それが図られたことはないように思われる。憲法学者は天皇に対して「天皇は象徴に過ぎない」と消極的否定的に解釈するだけである。

「日本国民統合の象徴」として振舞うためには

天皇が「日本国民統合の象徴」である以上、皇室行事は単なる天皇家の問題に留まらず、より高次元の行事のはずである。だから「退位の礼」「即位の礼」「大嘗祭」は「国家的行事」とか「国家的儀式」と評価すべきである。

2019年(平成31年)4月30日、退位の礼が行われる皇居・宮殿正殿(Wikipediaより:編集部)

今上天皇の譲位に連動して皇室行事の整理・縮小が議論されているが、本当にそれで良いのか。

天皇が「日本国民統合の象徴」として振舞うためには「儀式」は非常に大きな役割を果たすはずだが、このことが論じられている印象もない。皇室行事縮小論には天皇の身体的限界という観点のみならず「天皇は象徴に過ぎない」という消極的否定的解釈が根底にあるのではないか。「天皇は象徴に過ぎない」と言う解釈は天皇の実態に即した解釈なのか今一度、検証する必要がある。

良くも悪くも今、天皇論は盛り上がりを見せている。これを機会に主権者として、そして何より日本人として天皇について議論を深める必要がある。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員

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