「令和」ゆかりの大宰府は日本防衛の拠点だった

2019年05月16日 11:30

友人の誘いで、福岡県にお伺いして、「令和」発祥の地である大宰府を訪れた。ここしばらくの間に、世界遺産の沖ノ島や魏志倭人伝に出てくる伊都国の跡といわれる平原遺跡なども訪れたので古代の筑紫地方についてかなり勉強ができた。

平原遺跡・1号墓(Wikipediaより:編集部)

太宰府市は、「令和」が「万葉集」における宴で読まれた歌を集めた部分の「序」から引用されたというので、時ならぬ大観光ブームだし、中国や韓国の観光客であふれている。

現在の太宰府市は、平城京や平安京と同じような都市プランだった大宰府都城の東北の端にある太宰府天満宮の門前町がもとになって広がり、西鉄の太宰府駅や九州国立博物館もここにある。

太宰府市にある坂本八幡宮。令和ゆかり記念ということで、5月1日から6日まで臨時で御朱印が授与された(Wikipediaより:編集部)

それに対して、令和ゆかりの地である坂本八幡宮は、特別史跡になっている大宰府政庁跡の北西にある。大伴旅人の館の跡だ。

大宰府には、白村江の戦いのあとの唐軍の来襲に備えた大野城や水城の遺跡があるが、観光地としてはほとんど注目されていないのが残念だ。

しかし、そもそも大宰府とはなにか。それは、西日本の政治と文化の中心である以前に、日本防衛のための軍事拠点として建設されたのである。

もともと西日本の中心は博多(那ノ津)だった。ところが、唐軍(白村江の戦いの敵軍には新羅も加わっていたが主力は唐軍である。百済を滅ぼして併合していたのは新羅でなく唐であるから当然だ。新羅領になったのはもっとのちに横領したものだ)の来襲も心配された。そこで、海に近い博多では不安だというので、要害堅固な大宰府を築いて移転したということだ。

ちょうど難波京(大阪)や飛鳥では海に近くて不安だというので、逢坂山の向こうの大津京に遷都したのと同じ理由だ。そして、前面に水城というダムを築いて防御としていざというときには堰を切ろうとしたのだ。背後には最後の砦としての大野城を築いた。

ところが、現在の太宰府市の観光コースをまわっても、国土防衛の拠点としての大宰府の役割はあまり感じられないという以上に、あえてそういう印象がしないように薄められている。そのかわりに、同市の九州国立博物館の展示でも東アジア諸国との友好ばかりが強調されて、中国や韓国の気に障るようなことはないようにされている。

大宰府跡、北へ約3kmの岩屋山からの遠景(Wikipediaより:編集部)

もちろん、東アジアの友好も大事だが、国土防衛の最前線というのが、大宰府の出発点であり、刀伊の来襲や元寇のときも最高司令部として機能していたことなど申し訳程度にしか展示されていないのは困る。

博多でも元寇についての国立の展示館くらいつくったらどうか。

刀伊の来襲で大宰府が大活躍したことは井沢元彦氏や百田尚樹氏の著作でよく知られるようになったし、私も『「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か』で詳しく論じた。

神功皇太后についての多くの遺跡も、韓国侵略というイメージがするというので、積極的な売り出しがされていない。

だが、あの当時は朝鮮民族とか韓国・朝鮮国家などまったく成立していなかった。半島南部では各民族が入り乱れ群小国家が乱立していた。そのなかから、百済や新羅が少し成長し近隣諸国を侵略する一方で、北から高句麗、南から倭国が進出して、四つどもえで主導権争いをしていた。

だから、百済・新羅・高句麗の膨張政策と日本の進出はまったく同じ性質のもので日本だけが批判されるべきことではない。

むしろ、そうして獲得した日本固有の領土である任那を新羅(韓国)に侵略されただけだ。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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