昭和天皇は東条が好きで吉田茂や近衛は嫌いだった

八幡 和郎

田島道治「拝謁記」には昭和天皇による歴代の首相などの人物評がかなり載っているようだ。NHKのホームページにはその一部が載っているが、全容がはっきりしないので、よく理解できないところもある。また、NHKニュースで報道されている内容は、ホームページで公表されている内容の要約の仕方としてもでたらめで、分析に当たったという研究者のコメントもお粗末。

NHKサイトより:編集部

昭和天皇は自らについて、「事務的な人間」と規定し、同じようなタイプの人間と相性がよかったとし、「近衛はよく話すけれどもあてにならず、いつの間ニか抜けているし、人を見る目がいかもの食いで変つた人を重用するがすぐに考えが変わる(その一方、自分の誤りだと思ふ事ハ餘り拘泥しないスツト変へるといふ様な点ハなど長所はあつた)。東條は「事務的」でいいが、「相当な点強かつた」ので、「部下から嫌われ始めた」とし、「近衛と東条との両長所が一人になればと思ふ」といっていたのだという(この「拝謁記」においてではないが、特高などを使って対立する人物を弾圧したことなどを批判していたことが伝えられている)。

近衛文麿と東條英機(NHKサイトより:編集部)

ここでいう「事務的」というのは、「論理的で目配りが良く飛躍した考え方やいちかばちかなどしない」ということだろう。

しかし、だからこそ、戦争に向かう道から思い切って脱出できなかったとか、早期の終戦に向かえなかったのも確かだったのである。

また、木戸幸一を事務的と誉めているし、また、「東条は私の心持を全然知らぬでもないと思うが鈴木貫太郎のやうに本当に私の気持を知つてなかった。終戦は鈴木、米内、木戸、阿南と皆私の気持をよく理解しててくれてそのコンビがよかつた。東条と木戸の関係は悪くはなかつたがとても鈴木の時のやうではない。私の気持をほんとうに理解してその上コンビがよい時に始めて事は成功する」とする。

戦後の総理については、芦田に対する高い評価と吉田のやり方への戸惑いが顕著だ。田島長官が芦田人事だったことを差し引いて考えねばならないのだが、「吉田は演繹的で勘できめた事を強く押す。理屈でいろいろ究めつくして帰納するといふ事がございません」と田島がいったのに対して、昭和天皇は「芦田はその点よろしい。理論ぜめで少しぎこちないが行き届く。研究した結果道理でおして、一寸きつすぎる場合もあるが事態はちやんと研究する。吉田は勘で動く人間なので難しいといいつつ、「吉田と芦田との長所が一人だとよい」と述べたとしている。

芦田均と吉田茂(NHKサイトより:編集部)

ただし、吉田と芦田との長所を合わせればいいのだがと仰っているのに、吉田の長所について少なくともNHKの紹介では触れている部分がないので、なんのことやら訳が分からない。

また、昭和28年8月の拝謁で「吉田と組むのは重光より芦田がよい。芦田は頭がよくて、細くて、よく知つて長所が丁度吉田の短所だからあの二人が組むとよい。ちょうど近衛と東條のやうなもので二人よせると丁度いい一人が出来る」と語ったと記されています。「芦田は中々出来る。吉田とコンビになるといい。いっしょにやれば吉田は老人だし自然に芦田も首相になれる」と仰っているのだが、昭和28年において、芦田は有力な首相候補だったのかと疑問な気もする。

芦田はマッカーサーとの交渉でも、まじめに対処しすぎて、メリハリをつけて、マッカーサーに抵抗することすらなかったとされている。吉田はアメリカに抵抗するときはした人だ。はたして、芦田なら吉田よりうまくやったと昭和天皇が本当に思っておられたのか、NHKが紹介している範囲では、「吉田の長所」についての言及が欠けているので謎のままだ。

このあとは、「拝謁記」と関係ないのだが、昭和天皇は、たとえば、福田赳夫、灘尾弘吉、前尾繁三郎のような堅実な官僚政治家が好きだったという話を読んだ覚えがある(出典を忘れたのでご指摘いただけるとありがたい)。

その気持ちは分かるが、状況が悪いときに打破するためには、やんちゃな部分がないと無理だ。たとえば、宇垣一成を首相にすることに昭和天皇は反対されたわけだが、宇垣に賭けてみたかったと多くの日本人が思っていたのは、戦後に参議院選挙に出たときトップ当選したことでも分かることだ。

そのあたりは、やはり、昭和天皇の良くも悪くも性格というしかない。昭和天皇が戦争を止められなかった、終戦を早められなかったのかと言えば、それはもっと思い切ってリスクを覚悟で行動されれば、あるいは大胆な割り切りをされれば、可能だったかもしれないが、たとえば、軍の一部による反天皇クーデターの可能性もあったわけである。

それを吉田茂などはいささか慎重すぎたと考えていたわけだし、そんなことはないと考える人もいたということだと思う。

私自身についてはどうかといえば、やや吉田に近い。日独伊三国同盟に反対されながら、それを破って単独講和することにも難色を示されたあたりなど、まじめすぎでないかという気はする。

ただ、戦後における慎重さは、きわめてよい方向に働いたということは吉田茂も認めている。「拝謁記」にあるように、いろいろ不満は持っておられたが、首相の意向を尊重されたことなど好例なのである。(原文にはわかりにくいところがあるので、言葉遣いなど若干、加工している。原文はNHKホームぺージで確認願います)

八幡 和郎
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授