台湾総督府編「台湾統治始末報告書」を読む①

はじめに

清との戦いに勝利して日本に割譲された台湾は、歴史上初めて欧米列強、即ち白人の国家でない極東の島国の植民地となった。

日本統治時代の台湾総督府(現総統府)庁舎:Wikipedia=編集部

1623年にオランダに澎湖諸島を占領された明が、台湾を代わりに差し出したように、そして清の康熙帝が、オランダを駆逐した鄭政権を破った施琅に献言されるまでそこを放棄する積りだったように、歴史は三度繰り返され、1895年に李鴻章が台湾の割譲を申し出、伊藤博文がそれを了とした結果だった。

欧米諸国は遅れて現れたこの東洋の列強が、同胞が住む清でさえ手を焼いた「化外の地」をどう治めるか高みの見物を決め込んだ。いやが上にもそれを意識する日本は樺山資紀・桂太郎・乃木希典を総督として送り込む。が、土匪や蕃人の討伐に明け暮れた3人の在任期間は合わせて僅か2年9ヵ月に過ぎなかった。

第4代台湾総督となった児玉源太郎(Wikipediaより:編集部)

日本の統治がようやく軌道に乗ったのは、4代目総督として1898年2月に着任した「長州の麒麟児」児玉源太郎陸軍中将からだ。児玉は爾来1906年4月まで8年2ヵ月総督職にあったが、その間に陸軍大臣・内務大臣・満州軍総参謀長などを兼任したため、台湾の統治は民政長官の後藤新平に実質任せた。

後藤の在台は98年3月から1906年11月までの8年8か月、大計を為すに必要な年月だった。児玉が医師である後藤に白羽の矢を立てたのには次のような経緯があった。日本初の総力戦である日清戦争からの膨大な復員兵の検疫を後進列強国がどのように行うか、これにも欧米諸国の注目が集まった。

そこで児玉が検疫責任者に抜擢したのが、当時一介の医師官僚に過ぎなかった後藤だった(桂太郎の助言に依るとの説もある)。後藤は世界が注視する中、およそ2カ月間で23万人に上る復員兵と延べ700隻近い艦船の検疫をものの見事にやり遂げたのだった(『正伝・後藤新平3  台湾時代』)。

この異能の二人が在任した8年余りの間にその後の台湾統治の骨格が出来上がった。最も象徴的な出来事は早くも1905年に確立した、内地からの支援に頼らない台湾の独自経済だ。35年間に亘り一貫して内地から持ち出しを続けた日本の朝鮮統治との際立った違いがここにある、と筆者は思う。

後藤新平(Wikipediaより:編集部)

その理由は幾つもあろうけれど、筆者は医師たる後藤の「生物学的統治」、即ち「阿片漸禁策」に見られるような、日本式を押し付けず現地の習俗に合わせた政策を採ったことに先ず指を折る。そして石塚英蔵・祝辰巳・中村是公・新渡戸稲造・長尾半平らの綺羅星の如き有能な「人材招致」が続こう。

その一方では果断な行政組織改革と冗員淘汰も行った。着任早々、後藤は「全台の官吏のうち一人として台湾内地を踏査し、その地理を知る者がなかった」と知る。「領有後二年有半」を経てのこの有様を目の当たりにした後藤は、県・庁の統廃合などの組織改革と合わせて官吏1,080人を一挙に馘首した。

こうして整えた統治体制の下、児玉が後藤以下の俊英に行わせた施策の筆頭には、鉄道・道路整備、築港、土地調査の三大事業と塩、樟脳、阿片の三大専売が挙げられる。なお、土地調査は、旧慣調査及び戸籍調査と共に三大調査とも呼ばれる。

三大事業のうち、道路整備では当初から招降した土匪らの土地と労働力を活用した。鉄道では08年に基隆-高雄395kmが完成、築港では浅い天然港だった淡水・安平・高雄を改修し、高雄港は良港基隆と同様に6千トン級の接岸が可能となり糖業発展に寄与した。

三大調査のうち土地調査は、徴税の基礎と位置づけて「台湾地籍規則」、「台湾土地調査規則」、「臨時台湾土地調査局」を設け、6年間に延人員167万人を投入、日本初の三角測量も導入し、田31万4千甲、畑30万5千甲の合計62万甲を確定した。27万甲に上る隠し田を見つけて新たに登録もした。

「生物学的統治」を支えた旧慣調査会では、調査会を発足し後藤民政長官みずから会長に就任、「臨時台湾旧慣調査会規則」を設け、京大教授岡松参太郎はじめ多くの学者を加えて調査を実施した。その成果は膨大な報告書にまとめられ、今日でも清国学や中国学の研究に貢献している。

台湾史上最初の本格的な人口調査は「戸籍調査令」の下に行われた。1910年当時で、総人口304万人(本島人298万、日本人5.7万、外国人1万)と確認された。本島人の内訳は、福建系249万、客家系40万、平埔族5万、高砂族4万だった。なお、敗戦時は、本島人は約600万と倍増、日本人40万余だ。

参考拙稿
日本統治下にあった台湾と韓国、どうして韓国だけ反日なのか
韓国人に知ってほしい「台湾抗日の歴史」

前置きが長くなったが、こうして築かれた台湾統治の土台に諸施策が進められ、1945年8月まで台湾の地に50年の時が流れた。以下に紹介する「台湾統治始末報告書」は、ポツダム宣言受諾から9ヵ月後の1946年4月に台湾総督府残務整理事務所によって編まれた9,500字ほどの敗戦前後の記録だ。

冒頭部

国立国会図書館デジタルコレクションより:編集部

(以下、要点を抜粋している。太字は断りない限り筆者による)

我が国の台湾統治終局に就きまして顛末をご報告申し上げますことは、実に感慨無量の至りに存じますが、四月下旬、在台四十余万の軍官民の引揚還送が完了致しましたこの機会に、終戦後の台湾の実情、殊に接収の経過、在留日本人の動向とその還送等に就き、以下概略ご説明申し上げたく存じます。

始末報告書の目次はこれ以下、終戦直前の島情、終戦直後の島情、接収の概況、本島人の動向、在留日本人の動向、在留日本人の還送及び財産処理、そして結論と続く。

終戦直前の島情

敵機の来襲次第に激烈となり、周辺の戦機いよいよ緊迫を告げて参りましたので、台湾戦場化必至の想定の下に、総督府に於きましては軍と表裏一体となり、・・あらゆる施策の根拠として治安の維持、民心の把握に不断の配意と警戒を致しました。島民もまた日本人は元より本島人に於きましても・・予想以上の協力の実を示し・・戦場体制の整備強化に軍官民一体となり、涙ぐましき努力を・・

結局、米軍は沖縄上陸作戦を採り台湾上陸はなかった。が、内地に劣らず台湾も激しい空襲に晒され、その対応には日本人も本島人も一致協力して当たったことが述べられる。なお、本島人とは、蒋介石と共に渡台した国民党軍らの外省人との対比で、現在は本省人と呼ばれている日本領有以前から台湾に居住していた人々を指す。

終戦直後の島情

同日(*8月15日)総督諭告を発し、只管大詔を奉じ軽挙妄動を慎み、軍を絶対に信頼して冷静生業に励むべき事を諭しました。その後・・本島人に於いては、戦争終局による安堵と明朗の気分が観取せられた外、種々複雑な感情の潜在底流するのを認められましたが、将来の見通し明確ならざることと、無傷の日本軍が厳存致して居りまする関係もありまして、表面上は従前と何ら異なる処なく、一部には寧ろ日本の敗戦を悼み悲しむ者すら散見・・

在留日本人に於きましても、終戦直後の本島人の平穏なる動向に楽観的な気分濃厚となり、今後の母国の苦難を想いまた五十年に築き上げ来った今日の地盤を放擲して本島を去るに忍びず、何とかして外交交渉に依り台湾に於ける日本人権益の容認を得、将来の日華親善合作の実を上げたしとして、本島に残留を希望する者も多き状態・・

九月に入り南京に於ける中国戦区受降調印式行われ、台湾の中国復帰確実となり、その時期意外に早きを予想せらるるに至り、本島人間には漸次日本よりの離反傾向表面化し、地方第一線官公吏に対する暴行、米穀供出拒否乃至は供出済米返還要求等の紛争惹起し、・・この機に乗ずる不定無頼の徒の台頭を見、日本人財物の強要強奪随所に発生する等、治安を紊し公安を害する事象続出するに至った・・

それまで「従前と何ら異なる処」なかった本島人も、受降式後は「不定無頼の徒の台頭を見、日本人財物の強要強奪随所に発生」した。残念なことだが本島人が日本人と全く差別なく扱われた訳ではない。70年経っても続くのは異常だが、直後に積年の恨みを晴らそうとする徒が現れるのは寧ろ自然だろう。

接収の概況、本島人の動向、在留日本人の動向、在留日本人の還送及び財産処理、そして結論に就いては次回以降に続く。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。