上皇ご夫妻批判?共同通信記者の記事に驚き

八幡 和郎

「現代ビジネス」に『皇室記者が現場で感じた、新天皇夫妻と上皇夫妻の「大きな違い」~「お堀の内側」で目にしたもの』という記事を、大木賢一・共同通信社編集委員が書いている。これは、両陛下へのヨイショ記事であるとともに、これまでに例を見ない上皇陛下と上皇后ご夫妻への批判記事ともいえ驚いた。

宮内庁サイトより

メディアはつねにそのときの両陛下への批判めいたことは両論併記であっても滅多に書かないし、書いたとしても非常に婉曲である。そのために、退位をめぐる議論が典型だが、疑問を呈するような意見はほとんど一般の目に触れることはなく、他の可能性についても議論されないし、両陛下と違う考え方やスタイルをもつ皇族などは批判されがちだ。

昭和天皇のときには、「皇太子が天皇になって大丈夫か」といわれた。平成の御代になったら大絶賛の嵐で「皇太子夫妻の身勝手」が批判された。そして、令和になったら、またまた掌返しで「秋篠宮バッシング」だ。

それなら、ご退位後の上皇ご夫妻に対してはどうなるのだろうと思っていたら(海外でも前国王は厳しい批判の対象になりやすいのが普通だ)、今回のかなりショッキングな記事が出た。

こういう観点からの議論がこれまで出てこなかったのが、よくないのだが、一方で、単に今上ご夫妻をよいしょするために上皇ご夫妻について論じたととれなくもないし、言葉の選び方がもうひとつ無用な反感を買いそうな気もする。

そもそも、そのときどきの両陛下への極度の諂い、とくに、示されるスタイルが唯一正しいやり方だと言わんばかりの報道はよろしくないと思う。それぞれの両陛下のお考えも、能力的な個人差もあるのだから、それぞれのやり方を追求されればいい。つねに、前の陛下のスタイルを踏襲しろというのはおかしい。

もちろん、それぞれの陛下や皇族のスタイルや意見は、当然に内外からの批評の対象になるし、それを宮内庁も両陛下もお聞きになって、前向きに取り込んでいけばいいのではないか。

そういう意味で、平成の陛下が退位についての「お言葉」で語られた「象徴天皇像」についても、世間では普遍的な価値を持つものという受け取りが主流だったが、私は「陛下の個人的な目標」と受け取るべきだといった。

なぜなら、それは昭和天皇のそれとは違ったものだったのだから、仮に平成の陛下のスタイルが普遍的なものだとすれば昭和天皇のスタイルは批判すべきものになる。また、雅子さまの体調からして同じスタイルをとることは無理であろうから、新陛下が困った立場になりかねないと思ったからである。

私は他のことについてもそうだが、常に極端なよいしょにも、身も蓋もない批判にも荷担したくない。とくに、皇室については、宮中に諫言をいとわない忠臣などいなくなったいま、和気清麻呂は週刊誌やネットにしかいないのであって、メディアが苦言をすることをしないことは、皇室のためにもよくないと前から言っている。

そういう観点から、大木氏が平成の陛下ご夫妻のなさり方に疑問をもっていたら、ご在位中にすべきだったと思うし、現在の両陛下のスタイルには無批判に過ぎるのもいかがかと思う。

また、昨今の秋篠宮皇嗣家に対する一方的に過ぎるバッシングにも批判をすべきだと思う。しかし、その一方で、これまでの、平成の両陛下のなさりようがなにもかも正しい、他に選択などがないような議論に一石を投じるという意味では、大木氏の論考を高く評価したいとも思う。

その内容については、リンクをはっているので、そちらを見て頂きたいが、たとえば上皇后陛下については、以下のようなことが書いている。

大木氏の記事より:

「前天皇が多用してきた『象徴の務め』なる言葉に反感を持ちます。象徴天皇の「義務」は、憲法に定められた国事行為のみなのに、それ以外のことも含めて『務め』と言ってしまえば、後の天皇たちは、それぞれの思いで自由にふるまえなくなってしまう」

「前天皇夫妻、特に美智子さんは、プロデュース能力にたけた人だと思います」

「若いころは、大きなサングラスを頭の上にかけるなど、女優然とした振る舞いで世間の憧れを浴びるファッションリーダー的存在でした」

「美智子さん自身が『天才女優』と言ってもいいと思います」

「自分がどう見られているか絶えず意識し、自分たちを報じるものにはほとんど自ら目を通していると聞きます。『自分が一番目立っていないと気が済まない人』と評する人も何人もいます」

「『平成の天皇皇后像』は、こうした美智子さんの演出能力で形作られたと考える識者は少なくありません」

「阪神大震災でのスイセンの花、東日本大震災でのハマギクの花。被災地との交流のストーリーも、へそ曲がりな私の目には『用意された通りに書かされた』と屈辱を感じることがありました」

私自身は、こういう少し険のある感情的な表現は、あまり好まないが、ただ、ひとつ思うのは、平成の両陛下には完璧主義の良い面とともに、異論や批判をされることを嫌われるところがあったような気はする。

昭和天皇は臣下に対して厳しく問い詰められることが多かったが、それは反論の機会を与える面もあった。ところが、平成の両陛下は丁寧でへりくだっておられる印象すらあるが、同意を求めるような表現をよく使われた。これが、異論を唱える気持ちを萎えさせたのでないかという気はするのだ。

それに対して、今上の両陛下は、自分たちの気持ちをストレートにいわれる。それが、いまのところは、フレッシュな印象を与えているのだが、そう長くは続かないだろう。

たとえば、皇后陛下の体調への配慮から、公務の量と質は明らかに落ちているし、それに伴う様々な問題もある。

それに対して、ひとこと、遺憾、残念、申し訳ないなどのお言葉がないのには違和感があるし、マスコミもあたかも完全回復などと実情とは違う報道・論評するのは、ヨーロッパなどのマスコミ報道とは大違いである。

BBCなど女王陛下であろうがほかの皇族に対しても、批判が出ているようなことがあるときには、言葉はやさしいが、ちくりと付け加えているし、それが正常だ。また、そのことが、他の皇族などに対する一方的なバッシングを避ける防波堤にもなっているのである。

八幡 和郎
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授