金日成と李承晩はこうして南北朝鮮の為政者となった:朝鮮半島分断小史③

高橋 克己

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日本と満州国は39年10月以降、共同で東北抗日聯軍の本格的な掃討に着手、40年中には同軍第一路軍司令官楊靖宇以下の主要な幹部を屠った。残った朝鮮人の幹部は全光と金日成のみとなったが、全光も41年1月に日本の帰順工作に屈して投降し、金日成は同年3月に部下数名と共にソ連に逃れた。

金はハバロフスク近郊のビャーツクで東北抗日聯軍の第二路軍や第三路軍の退避者や聯軍のパルチザンらと合流し、45年9月までの約4年半をソ連極東軍傘下の88特別旅団で訓練を受け過ごした。この地で長男の正日は金貞淑との間に42年2月に生まれたので、白頭山とは何の縁もゆかりもない。

88特別旅団のメンバー、前列右から2人目が金日成(Wikipediaより)

45年8月15日に88特別旅団にいた中国人パルチザンたちは中国東北部に戻り、平壌生まれの金日成は19日に海路元山に入って平壌に向かった。後の側近、北朝鮮人民軍司令官姜健、幹部養成機関「平壌学院」校長金策、中央保安幹部学校校長安吉、民族保衛相崔庸健らが一緒だった(徐前掲書)。

北の革命家や独立運動家の中からソ連が金日成を選んだ理由には、①コミンテルンと連携していた朝鮮人のスターリンによる大量粛清、②30年代~40年代のソ朝の共産党の断絶、③ソウルでの朝鮮共産党設立(朴憲永)とその主要人物だった玄駿爀の暗殺(45年9月3日)などが挙げられる。

そしてソ連は金日成を終始一貫して支えた。南北の分断が長引いたことも金には幸いした。その間に日治下に活動していた独立運動家らの多くが、朝鮮随一の古都で日本統治期の首都だったソウルに集まったからだ。特に政治に関わりたい者はそうだったし、朝鮮共産党さえ米軍政下のソウルに建てられた。

長く国外にいた金は、臨時政府の李承晩や金九や朝鮮にいた呂運亨や曺晩植らに比べ、独立運動家としての知名度が圧倒的に低い。このため朝鮮人は彼を愛国独立闘士とは見ず、ソ連の傀儡として容易に受け入れなかった。が、そのことが却って金日成をしてソ連の政策を忠実に履行せしめた(徐前掲書)。

金日成が朝鮮人指導者と初めて顔を合わせた10月12日、曺晩植は金をソ連軍民政部のロマネンコから紹介される。14日のソ連解放軍歓迎大会までには、集まった多数の民衆に金の名は知れ渡っていた。人々は金と曺の演説に注目したが、若く経験不足の金の演説は曺の機知に富んだそれに比べ見劣りした。

1945年10月14日のソ連解放軍歓迎大会に出席した金日成。後方にはソ連軍幹部が並ぶ(Wikipediaより)

つまり当時の北の指導者候補は、第一が曺晩植、次が北越した共産党指導者朴憲永だった。だが曺は後述する信託統治案に反対してソ連と対立、朝鮮での共産党運動の複雑な覇権争いに身を置いていた朴もソ連は扱い難い存在だ。が、闘争一本鎗で来たまだ若い金は、ソ連にとって操縦し易かった。

ソ連は金日成の元山入港の翌日に当たる9月20日に、占領政策を北の民衆に明示していた。その中でソ連は、①北にソビエト政権の機関や秩序を樹立せず、②反日的な民主主義政党を基礎とするブルジョア民主主義政権を樹立し、③そのための反日的民主主義組織の形成を妨害しない、などとした。

しかしソ連は、人民委員会に地方行政権を任していたとはいえ、それをソ連民政部の監視下に置き、かつ委員会内の民族主義者を社会主義者に置き替えていった。このため南に逃れる民族主義者が続出、当初の多様な勢力は影を潜めていった。こうして金日成は北の為政者としての地位を固めてゆく。

ここで南に目を転じよう。8月15日以前に総督府と呂から受けた協力要請を固辞した保守派の宋鎮禹は、海外の臨時政府との連携重視をその理由に挙げた。宋はドイツ占領下で傀儡となったフランスのペタン元帥になることを危惧したのだった(「韓国における『権威主義的』体制の確立」(木村幹))。

1945年8月16日、YMCAで演説する呂運亨(Wikipediaより)

当時、南朝鮮には三通りの政府の可能性があった。すなわち、①人民共和国の発展形、②海外の臨時政府の帰還形、そして③米軍政だ。①と②はカイロ宣言の「in due course(やがて)」を極めて短期間とみる考えに基づく。が、米ソは飽くまで、朝鮮の独立を一定の信託統治期間の後と考えていた。

9月11日に米軍政長官に就任したアーノルド少将は10月10日の会見で、「軍政庁以外のいかなる政府も存在しえない」と人民共和国を否認した。背景には「アメリカ人はそれまで一人の朝鮮人ともあったことがない」とブルース・カミングスが「現代朝鮮の歴史」で書く米国の朝鮮に対する無知があった。

勢い米軍政は総督府からの情報に頼らざるを得ない。その総督府に近かったのは、宋鎮禹を議長として9月7日に発足し、東亜日報に本部が置かれた「国民大会準備委員会」だった。同委員会は9月4日にできた「韓国民主党」、および志を同じくする朝鮮民族党と高麗民主党とが大同団結したものだ。

韓国民主党は東亜日報のオーナー金性洙とその同志の宋鎮禹を首席総務とし、名目的な領袖に李承晩や金九らの海外組を据え、人民共和国の打倒を声明していた。米軍政が彼らを受け入れたのには別の理由もあった。それは米国における李承晩の経歴と手紙攻勢による米政権への執拗なロビー活動だった。

ここで李承晩のことになる。李は1875年3月に生まれ、14歳から何度か科挙に失敗、20歳で米人宣教師がソウルに建てた培材学堂に入った。そこで英語と民主主義に接した李は、李朝の腐敗に反対した開化派の徐載弼や李完用らが建てた「独立協会」に参加して捕まり、98年から7年間投獄された。

米国へ派遣され、ルーズベルト大統領との面会に臨む李承晩(1905年、Wikipediaより)

李はそこでの拷問で手が不自由になるのだが、後に総督府による拷問と偽った。特赦で釈放され30歳を過ぎて米国に渡った李は、ジョージワシントン大で学士、ハーバード大で修士、プリンストン大で哲学の博士号を取った。学資の一部は朝鮮に関する講演料で賄った(「韓国の運命と原点」(金一勉))。

YMCAの教師に就くため11年に朝鮮に戻ったものの、反日事件に巻き込まれて再渡米した李は、獄中で知り合った朴容万を頼ってハワイに移る。そこで学校を作るなど知名度を上げ、在米韓人会議から18年3月のパリ講和会議への派遣を推薦される。が、米国政府は李に旅券を発行しなかった。

李はウィルソン大統領宛に、朝鮮を国際連盟の委任統治下に置くよう請願する書簡を送り、UP通信にも公表した。19年に3・1運動が起きて上海に「臨時政府」樹立された時、米国にいた李がその国務総理に推されたのにはこうした背景があった(金前掲書)。その後も李は米国政府に書簡を送り続ける。

米軍政が後に李承晩を韓国の指導者として選ぶきっかけとなったと思われる45年の書簡の何通かをFRUSから紹介する。(内容は拙訳の要旨)

45年4月20日付「韓国臨時政府委員長から米国務長官へ」・・4月25日からのサンフランシスコにおける国連設立会議に韓国臨時政府が参加できるようバーンズ国務長官に働き掛ける書簡

45年5月15日付「米国の韓国臨時政府委員長(李承晩)からトルーマン大統領へ」・・サ会議でヤルタ密約を知ったことの報告と同会議への参加要請、および韓国地下部隊の連合軍への参加申し出など。

45年7月21日付「国務長官から国務長官代理(ロックハート)へ」・・大統領は李承晩から「韓国臨時政府」を認める共同声明を発するようチャーチル、スターリンおよび大統領に要請する電報を受け取った。電報は「暫定政府」が軍事作戦で協力する機会を要求し、帰国後1年以内に国政選挙を行うことを約束している。非公式な方法で、適切と思われる語句で李に謝意を表して下さい。バーンズ

こうした臨時政府代表としての米国での活動やそこから生じたカリスマ性から、李は米国にいながら人民共和国の主席に名を連ねた。総督府を使うことが朝鮮人の反発を買うと知る米軍政は、宋鎮禹や金性洙らの保守派の活用を思い付き、そしてその保守派は李承晩や金九の海外勢の帰国を待っていた。

こうして南朝鮮は李承晩の指導体制が固まるのだが、その背景には45年12月に宋鎮禹、47年7月に呂運享、そして49年6月に金九が相次いで暗殺されことや、共産党指導者の朴憲永が北越する一方で北の有力者曺晩植が平壌に留まったことなどにより、南に李の地位を脅かす者がいなくなったこともある。

次回は45年12月のモスクワ協定(信託統治問題)から、48年8月の大韓民国樹立と9月の朝鮮民主主義人民共和国樹立までを概観し、本稿①~④の最後とします。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。