野次とヘイトスピーチは同根である

「合いの手」「声援」との混同 

国会審議や選挙演説における野次を巡っては「議場の華」とか「つきもの」といった具合で、言うなれば「許される野次」として肯定的に評価されることが多い。

ヤジ騒動で注目された自民党・杉田水脈氏(衆議院インターネット中継より)

その具体例も少なからず挙げられ、例えば高橋大輔氏によると戦前、大蔵大臣の高橋是清が海軍拡張費の説明の際に「海軍においては8年」との発言に対して三木武吉(「保守合同」の立役者)が「達磨は9年」と叫んだとされている(参照:杉田水脈議員に学んで欲しい「ヤジ将軍」の言葉(アゴラ:高橋大輔氏)

この逸話は大変おもしろく勉強にもなり高橋氏の知識量には感服するばかりだが、そうだとしても、これは野次なのだろうか。これは野次ではなく「合いの手」ではないだろうか。

読者の方々も思い返してほしい。球場やコンサート会場で「場を盛り上げる大声」を野次と言うだろうか。やはり「合いの手」とか「声援」と呼ぶのが普通ではないか。

「許される野次」とはこの「合いの手」「声援」との混同である。

あくまで野次とは「合いの手」「声援」に該当しない「場を荒らす」「発言者を攻撃する」表現であり、およそ肯定に値しないものである。だから「許される野次」などあるはずがない。

野次とヘイトスピーチは同根である

それでも「許される野次」はあると言う方もいるかもしれない。

百歩譲ってそうだとしても今の時代、これは通用しない。今はSNSの発達により「類は友を呼ぶ」現象が盛んであり、特定個人・施設を標的に「動員」をかけられる時代である。「許される野次」を認めると演説・集会の妨害が行われる可能性がある、というよりも既にそれは起きている。都知事・国政選挙における安倍首相への演説妨害や一部文化人の講演会開催の妨害である。前者は文字通り野次による妨害であり、後者は野次への警戒が中止判断に含まれていたと思われる。

何よりも今、野次を始めとした「他人を攻撃する表現」が日本社会の重大なテーマとなっている。

その代表例がヘイトスピーチである。ヘイトスピーチは人種などの特定属性への攻撃表現だが、野次もヘイトスピーチも「他人を攻撃する表現」に他ならないからこの二つは同根であり、その差はあってないようなものである。野次とヘイトスピーチは別物と思う者はどれほどいるだろうか。例えば政治的無関心層の中でこの2つを区別できる者はいるだろうか。ほとんどいないのではないか。

もちろん落ち着いた口調でヘイトスピーチを行う者もいるかもしれないが、ヘイトスピーチ対策でよく引き合いに出される在特会・日本第一党関係者の行動では野次が普通である。彼(女)らの行動に野次が含まれないということはあり得ない。

常識的に考えて野次とヘイトスピーチは相当程度、重なる部分があり、およそヘイトスピーチ対策を語るにあたって野次は避けて通れない。

だからヘイトスピーチに関心がある者は同時に野次にも関心があるはずで、ヘイトスピーチの「規制」を主張する者は野次の規制も主張するはずである。

ところが管見の限りヘイトスピーチ規制論者の多くが野次の規制を主張するどころか野次を積極的に肯定している始末である。そしてその代表格は朝日新聞である。

朝日新聞は先の参議院選挙における安倍首相への野次を肯定し、あまつさえそれが民主主義の一態様のごとく評価した。このことは以前、記した(参照拙稿:朝日の報道は公職選挙法第148条違反か?)。

朝日新聞は野次を積極的に肯定し、未だに「こんな人たち」という言葉を「抑圧された市民」のごとく使用する。愚かとしか言いようがない。

しかも最近、一部憲法学者までが「政治批判としてヤジを含めたある程度荒っぽい表現方法が認められるべきである」と野次を肯定したり(参照:、現代ビジネス:阪口正二郎氏

市民による野次を肯定するデモすら行われた(参照:毎日新聞)。

自分が支持する主義・主張のためならば他人を攻撃する表現を認める思考は「自由社会への挑戦」と評価しても決して言い過ぎであるまい。

野次と対峙すべきである

今、我々に求められることは「野次とヘイトスピーチは同根」との観点に立ち野次によって自由社会が破壊されないよう議院規則や公職選挙法を一部改正することである。

そして野次を肯定する者が所属する業界、具体的に言えばマスコミ・大学業界に過剰な優遇措置がないか検証することである。「野次の肯定」は自由社会におけるマスコミ人・大学人に期待された役割に著しく反するものだから積極的に検証すべきである。

本来、話題にすることすら憚れる今国会での「珍事」で導き出された結論は以上のとおりだが、どうだろうか。