日本共産党はなぜ「暴力革命」の方針をとったのか

安倍首相が「共産党の暴力革命の方針に変更はない」と答弁したことに、志位委員長が怒っている。彼が「全面的に反論済み」という共産党国会議員団事務局の見解にはこう書かれている。

1950年から55年にかけて、徳田球一、野坂参三らによって日本共産党中央委員会が解体され党が分裂した時代に、中国に亡命した徳田・野坂派が、旧ソ連や中国の言いなりになって外国仕込みの武装闘争路線を日本に持ち込んだことがあります。

しかし、それは党が分裂した時期の一方の側の行動であって、1958年の第7回党大会で党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱり否定されました。

彼らも1950年代に暴力革命をめざしたことは認めているが、それは「党が分裂した時期の一方の側の行動」であり、「党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もない」という。これは歴史の偽造である。

当時、共産党が「所感派」と「国際派」と呼ばれる分派に分裂したことは事実だが、書記長は1953年まで(所感派の)徳田球一であり、彼と野坂参三が起草して1951年10月に開かれた5全協(第5回全国協議会)で採択された「51年綱領」は、明らかに党の正規の方針である。

そこには「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」 と明記され、軍事方針では「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と書かれていた。この方針にもとづいて山村工作隊や中核自衛隊などによる武装闘争が行なわれ、白鳥事件や三鷹事件など、共産党の破壊工作とみられる事件が相次いだ。

警察に検挙される共産党の山村工作隊(Wikipedia)

しかしこうした武装闘争は国民の支持を得られず、1952年の総選挙で共産党の候補は全員落選した。このため1955年の6全協では51年綱領を「極左冒険主義」として否定したが、これは分派が「外国仕込みの武装闘争路線を日本に持ち込んだ」もので、党の誤りではないというのが、今に至る共産党の公式見解である。

武装闘争は朝鮮戦争の「後方攪乱」だった

このような暴力革命の方針が取られたのはなぜだろうか。共産党が分裂したのは、1950年1月の「コミンフォルム批判」 で当時の日本共産党の平和革命路線が批判されたことが発端だった。これはスターリンが書いたものだが、当時の日本で暴力革命が成功する可能性はまったくなかった。

スターリンが日本共産党に武装闘争をやらせようとした原因は、1950年6月に始まった朝鮮戦争だった。これは彼が金日成を使って始めた戦争だが、米軍の最大の後方拠点は日本の基地だった。それを共産党の武装闘争で後方攪乱することがスターリンのねらいだったのだ。

共産党の指導のもと、米軍基地に火炎瓶を投げたり、交番を襲撃したりするテロが行なわれた。多くの若者が共産主義の理想を信じて武装闘争に身を投じ、ブント(共産主義者同盟)などの極左の源流になった。

日本で暴力革命が成功する可能性は歴史上一度もなかったが、共産党は「プロレタリア独裁」の戦術や「前衛党」の組織原則を捨てなかった。そういう言葉は今は党の公式文書から消えたが、その誤りを総括したわけではない。それをよく表わしているのが「党が分裂した時期の一方の側の行動」という弁解である。

実際にはコミンフォルム批判を受け入れてスターリンの方針に従ったのは、宮本顕治などの国際派であり、彼らが6全協のあと主導権を握った。不破哲三などの構造改革派は党内闘争に敗れ、宮本のスターリニズムに従った。その後継者が志位委員長である。彼の脳内には、スターリンから受け継いだ無謬神話が生きているのだ。