私の書いた拙い文章に、早速反応をいただき光栄の至りです。私も松本さんの文を読ませていただき、それに思うところがありますので記したいと思います。
松本さんの反対意見の中で、最も大きなポイントとなるのが、
1. 殺人も、強姦も陵辱も、行為としては許されず、全て犯罪となる。
2. 人間は、幻想や妄想の世界では、何を考えても自由で、何人もそれには介入できない。
3. しかし、そのような考えを表現することに関しては、「許されること」と「許されないこと」があり、その社会的影響が、「何が許され、何が許されないか」の判断基準となる。
この3項目でしょう。特に3.について私なりの考えを述べます。
松本さんがおっしゃる『表現することに関しては、「許されること」と「許されないこと」があり』ということに関しては、私も同意するところです。少なくとも特定の個人を侮辱したり、「死ねばいいのに」などという類の発言をしたりする行為を許容すべきと考えているわけではありません(そのような言論にたいする規制を法律で担保するか否かについては、別の議論としてここではおいておきます)。
ただ、松本さんは「許されること」と「許されないこと」の判断基準として「社会的影響」を挙げていらっしゃいますが、これは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。性暴力ゲームをプレイする(あるいはそのような題材をあつかったあらゆるメディアを消費する、でもよいでしょう)男性は、一定の割合で凶悪な性犯罪をはしるというデータでもお持ちなのでしょうか。また松本さんは、『、「少年少女を対象とする性行為についての表現」については、これが広く社会に流通すれば、現実に少年少女が被害者になる危険性を増大させますし、一方、青少年自身が加害者になる危険性も高めます』という風に断定的におっしゃっていますが、このことに関する詳細なデータはお持ちでしょうか。
データのあるなしはともかくとしても、もしそのような事実があるというのであれば、日本の治安は規制の強い外国と比べ著しく悪い、あるいは日本の男性は規制の強い外国の男性に比べ女性に対しておおむね暴力的に振る舞う傾向があるということになりますが、松本さんはこの点についてどのようにお考えでしょうか。私は同意できかねるところです。
「殺人や、殺人に至る闘争、通常の性行為などは、許容範囲をある程度大きくしてもよい」という文についても、同意しかねる点があります。これをそのまま理解すると、現実に起きる殺人は許容されないが、表現行為は許容される一方、通常の性行為ではないSM(SMが通常の性行為であるか否かについては、まさしく人によって判断の分かれるところでしょうが、ここでは通常ではないとさせてもらいます。個人的な趣味としてやる分については、問題ないと考えております)は、すくなくとも個人的な行為としては許容されうるのに、表現行為としては許容できないということになります。私としては実に不思議でなりません。表現行為としての殺人を見ても人は影響を受けないがSMは受けるということなのでしょうか。
松本さんがおっしゃるような判断基準は、表現行為としての「性暴力」(強姦や陵辱)が許容できない一方、通常の性行為の後、性行為の相手方をそばにあったナイフで刺し殺すというような「性と暴力」は表現行為として許容できるということにもなり、大きな混乱をもたらすことでしょう(表現をする者も規制をする者も)。表現や創造は多彩です。多彩な表現行為の一部を規制する(国家が介入するということであればなおさら)ということがどれほど不毛で実りのないことであるかということについて、松本さんは真にご理解くださっていますでしょうか。
このような規制の導入の行き着く先は「社会的に望ましくない影響を与えるおそれのある表現行為はすべて禁止すべき」という発想です。こうなってしまうと、殺人や性暴力はおろかそのほかの行為についても規制の対象となるでしょう(つまり、極度に管理されたすばらしい言論や表現のもとで暮らす、すばらしい社会ができあがるわけです)。そこでは、涼宮ハルヒが学校の裏の私有地から笹を失敬する、夜中の学校に不法侵入するといった表現は青少年に悪影響を与える反社会的行為を表現したものとして許容されないでしょう。
ここまで書いてしまうとさすがに大げさという気がしないでもありません。ただ、規制が団体による自主規制によるものにとどまるのであればまだ笑ってすませられるでしょう(このような規制に賛成できないのであれば脱退も選択肢かもしれませんし、ソフ倫はかつて内輪もめにより脱退する会社が実際に出たように記憶しております)が、わたしはそのような範囲でとどまるとは思っておりません(実際、国家が介入しようとする動きが見られます)。
今回の騒動は、外国の人権団体が騒いでいるのを日本のメディアが報じたのがきっかけとなったものですが、自主規制の決定があっという間に行われ、その是非について十分な議論が尽くされたものではありません。外国の人権団体とやらが騒ぐのは簡単です。自分の国内で対峙する利害関係者が、amazonのような販売をおこなう業者に限定されるためです(作り出す者や消費する者がその国内にほとんど存在しない。原産国のほとんどは日本で消費者の大半も日本人でしょうから。政治力を持つメディアであればこうはいかないはずです)。
まともな議論も行われず、このような自主規制を強要されるような事態を松本さんは正常とお考えでしょうか。少なくとも、私と松本さんはアゴラという場を借りて考えを述べ、よりよい結論を出そうと発言しているのにもかかわらず、実社会での現状はこれにはほど遠いものです。私はこのような状況に危惧の念を抱いております。
実に長い文章をだらだらと書いてしまいましたが、最後に。松本さんは、幅広い人々に対するインターネットの普及について、語っておられますが、そのためには「インターネットに慣れ親しんでいない人達」が懸念するある種の不確実な要素をすべて排除すべきとお考えでしょうか。不確実な要素が無く「安心」してインターネットを使える体制を整備するために、広汎な規制を敷くことようなことが妥当であるとお考えでしょうか。もしそのようなお考えをお持ちでしたら、私はそれには同意できません。また、『「インターネットに対する社会的反感を拡大させない」という「より大きな目標」の為に、何とか我慢して頂きたいと思います。』と述べていらっしゃいますが、うがった見方をすると、言ったーネットの普及という目標を隠れ蓑にして自分らの事業の拡大や利益のために、自分以外の他者のみに犠牲を求めているように聞こえますがどうなのでしょうか(私の考えが単なる思い込みであることを願っております)。
それでは今回はここまでということにさせていただきます。また、機会がありましたらお考えをお聞かせいただけると幸いです。
*今回述べたことについて、私が対象としているのはあくまで「紙の上に描かれている、あるいはモニターの向こうにしかいない幻想上の人物」のみを対象としております。実在する人物については、当然別の考え方や対処があってしかるべきでしょう。
コメント
私は「社会的影響」という言葉は非常に抽象的なのでそれを規制の根拠にするのは強引だと思いますが、田部さんの議論もいきすぎと感じました。
こういう基準がコンセンサスになっているんじゃないでしょうか。
・社会的弱者は守られるべきである。
・社会的弱者にとって重要な価値や信条、権利のうちで、社会的にその正当性が広く認められたものを著しく傷つけたり、侵害するような表現をすることは適切ではない。
「女性、しかも少女という弱者の権利を侵害する男性の権力」という構図には勝てませんよ。
>ゆうきさん
それでは源氏物語から小説、歌舞伎、神話、教典、古典といった部類のものまで全て規制しろと仰るのでしょうか?
「ゲーム」だからで表現が規制されるという理論は理解できかねます。
見たくない人がを見なくて良い権利はあります。
そのためのレーディング、フィルタリング、ゾーニングであるのです。
>morito84さん
おっしゃるとおり私の基準を厳密に適用したら、社会的に容認されているものの中にも規制されるものが多数でてくるでしょう。しかし、社会的には私のいうような基準で規制するかしないかが決定されているように思いますし、「社会的弱者の権利を保護しろ!」という主張に対抗するのは困難に思えます。
表現内容が同じなのに規制されるものと、されないものとに分かれることについては、二つ構造が考えられます。
ひとつは、規制が発動されるかどうかに権力構造があるということでしょう。芸術や古典のように権威を得れば、表現に問題があっても容認され、ゲームやマンガ、ポルノのような大衆性の高い権威のないメディアで表現されると容認されないといった構造です。
もうひとつは、マクルーハンのいうクールなメディアほどほど規制され、活字のようなホットなメディアほど見逃される構造がありそうです。
しかし、この構造で権力闘争してエロゲーの正統性が主張できたとしても、最初の「弱者を守れ」の基準で負けるのは目にみえてると思いません?
>ゆうき さん
「規制反対派が支持を得ることは困難だろう、なぜなら規制賛成派はこのような構造に守られているからだ」という主張が「田部さんの議論もいきすぎと感じました」となるのがよく分からないのですが……
世の中の趨勢に合っていなければ「いきすぎ」なのでしょうか。
「いきすぎ」というの表現は「田部氏の主張に反対」という含意を感じます。
私は「現実」と「虚構」は補完関係にあると思っています。
人間は残念ながら「健全」な、つまり、「現実」に持ち込んでいい衝動だけを持つものではありません。暴力衝動、陵辱衝動、その他ネガティブな「現実」に持ち込んではならない衝動を持ってしまう場合もあると思います。それは良い事とは言えないかもしれませんが、人としては普通の営為であると思います。
その「現実」に持ち込んではならない衝動の受け皿として、小説や映画やゲームなどの「物語」つまり、「虚構」が存在しているのではと思っています。
そういう意味において「現実」と「虚構」は補完関係にあるのではと思っています。
この規制はその「物語」の補完機能を壊すものとして働いてしまうのではないかと危惧しているのですが。
もちろん、「ドン・キホーテ」問題、つまり「現実」と「虚構」の区別がつかなくなって、「虚構」の暴力行為を「現実」に持ち込んでしまう輩が発生する危険性も存在するとは思うのですが。
特に没入性の高いゲームは「ドン・キホーテ」を産みやすいメディアかもしれません。
ただ、それは、そういう「虚構」に対する「規制」の問題ではなく、人々のリテラシーの問題として扱うべきではないかと思うのですが。
コメントはハンドルネームでも投稿可能なのですね。
今回ソフトウェア倫理機構が規制に至ったおもな理由は
流通から干されかねない状況があったからだと聞いております。
飽くまで伝聞に過ぎないのですが、
「現行基準のままでは過激な性暴力を描いた商品は取り扱いできない」
といわれた場合、基準を厳しくするしかないでしょう。
厳しくはするものの、実際は何らかの抜け道も用意してあると言う
話も聞きました。
さらにはアダルトビデオなどでは先立って極端な性暴力を
規制しているという話です。(インディーズなどはどうかわからない)
何もかもが立ち遅れているのですよ。
そもそもソフトウェア倫理機構を通さなければ制作は自由です。
が、流通はどこも取り扱ってくれないでしょう。
それだけの話です。表現は自由です。ですが、信用が無ければ
商売はできません。これは商売の話であって、表現の自由の話ではない。
流通が社会に迎合したためソフ倫もそれに合わせただけでしょう。
これで過激な性暴力ソフトがゼロになるというわけではないようです。
でも今後こう言うことがないよう対策していかないといつか完全規制に
なるかもしれません。常に時代は動いております。
田部さんのおっしゃってることは極めて論理的だし、正論だと思います。タバコ喫煙者が「嫌煙全体主義」に対して、「酒や肉だって体に悪いじゃないか」と言っているようなものですね。「うん、その通りだ」と言わざるをえません。
むしろ、松本さんが感情論でしか反論できてないことに、「ああ、こんなレベルなのか」と、驚きと失望を感じました。
結論を言えば、田部さんの主張は正論だけど、「リアルポリティクスで負けた」、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。ソフ倫も業界団体であり、商売ですからね。B to Cの企業や産業は、不特定多数の消費者の顔色を伺わなければならない分、政治的には最も弱い立場です。
不満であれば、田部さんが団体を組織して、リアルポリティクスで勝つべく、外堀を埋めていくしかありません。ちょうどポルノ規制を主張する団体がやってきたのと同様にね。
えのぺれさんの意見が重要に感じました。
小売りサイドでは、並んでいるだけで嫌悪感をもたれるようなものは扱いたがらないでしょう。
松本さんの意見が感情論であったとしても、多くの消費者が田部さんの理屈よりもそちらを支持するなら、商業的には取り扱わないのが論理的です。
また、業界サイドが、全面締め出しをされるよりも一部自主規制という駆け引きをするのも論理的に思えます。
商材である以上、単なる表現に比べて障害が多いのは議論の余地がないと思うのですが。。商業ベースから排除されることが即表現の危機というのは、論点がやや違うと思います。
メーカーサイドも過激表現は、表現云々よりも商材の差別化のためだったと思うのですが。
過激でエッジなものがマージナルなのは仕方ないので、同人で活躍してもらったらいいと思います。たくさん売れればまた店に並びますよ。それが本質では。
まぁ、なんにしても程度の問題だとは思います。
いろんな意見はあっていいんじゃないですか。PCソフトもビデ倫、映倫、程度にしたらいいんじゃないですか?。
この件はそもそも、性暴力ゲームだからという話なのでしょうか。少し本題とずれてしまうので流して欲しいのですが、知っておいてほしいこととして。
性暴力ゲームの規制に向かう流れの中で重要な役割を果たした団体、イクオリティ・ナウとAPP研はともにラディカル・フェミニズム団体で、ポルノ(というか性行為全て?)に批判的です。
ソフ倫の役員を勉強会に呼んだのは山谷えり子議員。彼女は性教育ですら手厳しく批判されている方ですから、ポルノに寛容とは思えません。
今回の件は、ポルノそのものを排斥したい人達が、業界の一番弱い部分を狙った動きのようにも思えるのです。読売新聞がAPP研の主張を積極的に掲載していることも不気味です。彼らはポルノ撲滅運動の片棒を担ごうというのでしょうか。
表現の自由以前に、外国に輸出して販売すべきじゃないような気もしています。
それは大きな誤解ですよ。
海外で問題となったのは違法コピーされた海賊版です。
メーカーは国内の18歳以上向けにしか販売していないはず。
ちょっと問題はズレますが、海賊版ゲームを中古品として業者に売らせていたイギリスamazonの問題も大きいはずなんですよね
皆さんはなんでこんなに騒いでいるのか、正直理解できません。
ソフト倫は一民間組織に過ぎず、規制といっても自主規制であって、他人に対しまったく強制力はありません。
ソフト倫への加入も脱退も自由であり、法律が変わらない限り表現自由が変わりません。
このような自主規制で自分の自由を侵害されたと主張する人は頭がおかしいではありませんか。
業界が過剰反応しているかもしれませんが、表現自由までにでっち上げしないでください。l
To st_uesugiさん
そうですね。今回は「まだ」自主規制です。
これがいつ、法規制へと動き出すか分からないことに対して皆さん危惧されておられるわけです。
与党内にそういう動きがあるようですし。
また、児童ポルノ法案に対して、創作物も規制しようという動きも見られます。これは今のところ杞憂に終わると思われますが。
それから、倫理団体を脱退して作品を流通に載せることはかなり困難なようです。これは表現の自由を侵害されたようなものです。
業界が世論を読んで自主的に自主規制を決めたのならば私は問題だとは思いません。しかし、今回の件に関しては問題に感じる点がいくつかあるのです。
まず、「海外で問題になっている」と報道されましたが、実際に海外で騒いでいたのはごくごく少数の団体やメディアであったこと。
そしてその騒いでいる団体というのが、国内でかねてよりポルノ排斥を訴えていた団体と深い関係があったこと。
さらに、それら団体と思想は大きく異なりますがやはりポルノに非寛容な議員が先頭に立って業界に圧力をかけたと思われること。
つまり理性的な議論もなく、少数のポルノ排斥主義者によって業界が自主規制に追い込まれたように見えるということです。
僕はここが理解できないのですが、流通させることと表現することとはレイヤーの違う問題じゃないですか?
ネット上でダウンロード出来るようにしてあるのを当局が禁止するとなると話は別ですが。
liberal20さんの話のように、肯定派と否定派のせめぎあいで「外堀が埋められていく」というフレームは単純視にすぎると思います。話は肯定か否定かだけの話ではない。
単純に全面禁止することに問題があることを承知しているからこそ、ゾーンニングという落としどころを探る面もあるのだと思います。
この手の問題は著作権の話題と異なって、表現サイドの主張がなかなか聞こえてこず、概して一部の愛好者が表現擁護を主張する展開になっていると思うのです。これは自意識の問題を「表現」の問題と混同しているように思えます。
議論のどこにも「陵辱を表現したい」とかそう言うメッセージや視座が存在しない。田部氏の意見が合理的な主張であったとしても、説得力に欠け共感を得にくいのはそこら辺かなと。
あなたは何故外国と比較するのですか?
日本人は外国人と違うデータがあると、あなた自身が述べているじゃないないですか?
なのになぜ比較する?日本は日本の尺度でどうなのかを考えるべき。
でなきゃそこらのエロゲオタクと同レベルですよ?(笑)
今の日本とこのままの未来の日本とではどうなるのか?凶暴性、犯罪の内容はどうなるのか?
それを考えるべきところで、なぜ外国との比較になる?まったく説得力がない。
殺人は、殺りくに興奮する人もいるでしょう。
しかし、それ以上にエロスに興奮する人は圧倒的に多い。
殺人より、動機が多いんですよ。分かりますか?常識ですよ。
殺人は、その動機が重要で、表現として必要な場合がある。
エロスもそうでしょうが、どちらも限度はあるでしょう。
今回はただ単に、エロゲは限度を超えたに過ぎない。
あなたのような人がいるから、日本は閉塞感から脱皮できない!
あと、まともな議論が出来ないのは、エロゲユーザーが自己中で
誹謗中傷なのど暴言で、議論に発展しないところが大きいでしょう。
あなたの論表みてもマクロで見ているとは思えないしね。
え~と、いまさら何ですが一応、hidebou6さん。
正直反論する気も失せるんですが、誰も書き込む気ないみたいなので・・・。
>エロゲユーザーが自己中で誹謗中傷云々・・
と言いながら
>そこらのエロゲオタクと同レベルですよ?(笑)
とはどういうことですか?
あなたが嫌っているエロゲオタクのようにあなたも十分中傷しています。
>今回はただ単に、エロゲは限度を超えたに過ぎない。
あなたは何を基準にして限度を定めているのでしょうか?
規制派ですら漠然とした感覚で規制しています。後、女性の中にも規制反対者はいらっしゃいます。
それを無視して「ただ単に」って、そんな言い草が通用するわけ無いでしょう。
>エロゲユーザーが自己中
僕も含めてここにはエロゲユーザーのコメントが多々ありますが、僕にはここに書きこんだエロゲユーザーが自己中心的にに物事を考えているとは思えません。「主張」をしているだけです。「お前らマイノリティだから黙って言うこと聞け」などと言われて素直に聞けるわけ無いでしょう!!
あなたはよほどエロゲに嫌悪感を抱かれているようですが、一度感動すると言われている有名なものをやってみてください。
きっと少しは見方が変わると思いますよ。
追記です。
現代のエロ絵が異常だという方が多くいらっしゃいますが、このような性描写は現代に入って始まったわけではなく、江戸時代の頃から、エロ画は「春画」という形で存在していたことを忘れないでもらいたいです。
その中には大タコ(生物の方ね)がウネウネと足をからませて女性を襲っている情景が描かれたものもあります。
「富嶽三十六景」に代表されるかの有名な葛飾北斎も春画を描いていましたし、宮沢賢治も現実の女性を避ける傾向があり、生涯童貞であったために大の春画好きで、その全ての厚みは30センチにもなっていたそうです。
エロゲは、日本の伝統的文化である春画が紙という媒体からパソコンという媒体へと移り、表現が多様化しただけであって、それを使用する目的自体は何一つ変わっていません。当然オナるためです。性犯罪への関心を持つためではありません。
二投目に続く
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/kennzi.html
宮沢賢治について記述されたサイトですが、ここを見てもらえば、絵に対して性欲のはけ口を求める人種がいかに複雑な精神を持ち、現実女性と触れ合うことに恐怖心を抱いているかの指標になるのではと思います。
宮沢賢治も、今で言う「キモオタ」と近しい価値観で生きていたのです。ただ、宮沢賢治には僕と違って小説家と言う立派な肩書と才能がありましたが・・・。
現実の女性と接するか接しないかは個人の自由です。
女性を思いやる気持ちや現実の性犯罪を憎む気持ちは十分にありますが、女性恐怖は直せと言われて直せるものではありません。だからこそ、性的嗜好と女性との触れ合いを想像力で満たしていたいのです。
エロゲを奪うということは、僕のような大多数の性的弱者の唯一の逃げ道を奪うことになりかねないということをご理解いただきたいです。ホントお願いしますm(_ _)m
冗談ではなく、笑いごとでも無く、僕たちにとっては切実な問題なのです。