私はずれているでしょうか-田部大輔

2009年06月07日 20:05

私の書いた拙い文章に、早速反応をいただき光栄の至りです。私も松本さんの文を読ませていただき、それに思うところがありますので記したいと思います。

松本さんの反対意見の中で、最も大きなポイントとなるのが、

1. 殺人も、強姦も陵辱も、行為としては許されず、全て犯罪となる。
2. 人間は、幻想や妄想の世界では、何を考えても自由で、何人もそれには介入できない。
3. しかし、そのような考えを表現することに関しては、「許されること」と「許されないこと」があり、その社会的影響が、「何が許され、何が許されないか」の判断基準となる。

この3項目でしょう。特に3.について私なりの考えを述べます。


松本さんがおっしゃる『表現することに関しては、「許されること」と「許されないこと」があり』ということに関しては、私も同意するところです。少なくとも特定の個人を侮辱したり、「死ねばいいのに」などという類の発言をしたりする行為を許容すべきと考えているわけではありません(そのような言論にたいする規制を法律で担保するか否かについては、別の議論としてここではおいておきます)。

ただ、松本さんは「許されること」と「許されないこと」の判断基準として「社会的影響」を挙げていらっしゃいますが、これは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。性暴力ゲームをプレイする(あるいはそのような題材をあつかったあらゆるメディアを消費する、でもよいでしょう)男性は、一定の割合で凶悪な性犯罪をはしるというデータでもお持ちなのでしょうか。また松本さんは、『、「少年少女を対象とする性行為についての表現」については、これが広く社会に流通すれば、現実に少年少女が被害者になる危険性を増大させますし、一方、青少年自身が加害者になる危険性も高めます』という風に断定的におっしゃっていますが、このことに関する詳細なデータはお持ちでしょうか。

データのあるなしはともかくとしても、もしそのような事実があるというのであれば、日本の治安は規制の強い外国と比べ著しく悪い、あるいは日本の男性は規制の強い外国の男性に比べ女性に対しておおむね暴力的に振る舞う傾向があるということになりますが、松本さんはこの点についてどのようにお考えでしょうか。私は同意できかねるところです。

「殺人や、殺人に至る闘争、通常の性行為などは、許容範囲をある程度大きくしてもよい」という文についても、同意しかねる点があります。これをそのまま理解すると、現実に起きる殺人は許容されないが、表現行為は許容される一方、通常の性行為ではないSM(SMが通常の性行為であるか否かについては、まさしく人によって判断の分かれるところでしょうが、ここでは通常ではないとさせてもらいます。個人的な趣味としてやる分については、問題ないと考えております)は、すくなくとも個人的な行為としては許容されうるのに、表現行為としては許容できないということになります。私としては実に不思議でなりません。表現行為としての殺人を見ても人は影響を受けないがSMは受けるということなのでしょうか。

松本さんがおっしゃるような判断基準は、表現行為としての「性暴力」(強姦や陵辱)が許容できない一方、通常の性行為の後、性行為の相手方をそばにあったナイフで刺し殺すというような「性と暴力」は表現行為として許容できるということにもなり、大きな混乱をもたらすことでしょう(表現をする者も規制をする者も)。表現や創造は多彩です。多彩な表現行為の一部を規制する(国家が介入するということであればなおさら)ということがどれほど不毛で実りのないことであるかということについて、松本さんは真にご理解くださっていますでしょうか。

このような規制の導入の行き着く先は「社会的に望ましくない影響を与えるおそれのある表現行為はすべて禁止すべき」という発想です。こうなってしまうと、殺人や性暴力はおろかそのほかの行為についても規制の対象となるでしょう(つまり、極度に管理されたすばらしい言論や表現のもとで暮らす、すばらしい社会ができあがるわけです)。そこでは、涼宮ハルヒが学校の裏の私有地から笹を失敬する、夜中の学校に不法侵入するといった表現は青少年に悪影響を与える反社会的行為を表現したものとして許容されないでしょう。

ここまで書いてしまうとさすがに大げさという気がしないでもありません。ただ、規制が団体による自主規制によるものにとどまるのであればまだ笑ってすませられるでしょう(このような規制に賛成できないのであれば脱退も選択肢かもしれませんし、ソフ倫はかつて内輪もめにより脱退する会社が実際に出たように記憶しております)が、わたしはそのような範囲でとどまるとは思っておりません(実際、国家が介入しようとする動きが見られます)。

今回の騒動は、外国の人権団体が騒いでいるのを日本のメディアが報じたのがきっかけとなったものですが、自主規制の決定があっという間に行われ、その是非について十分な議論が尽くされたものではありません。外国の人権団体とやらが騒ぐのは簡単です。自分の国内で対峙する利害関係者が、amazonのような販売をおこなう業者に限定されるためです(作り出す者や消費する者がその国内にほとんど存在しない。原産国のほとんどは日本で消費者の大半も日本人でしょうから。政治力を持つメディアであればこうはいかないはずです)。

まともな議論も行われず、このような自主規制を強要されるような事態を松本さんは正常とお考えでしょうか。少なくとも、私と松本さんはアゴラという場を借りて考えを述べ、よりよい結論を出そうと発言しているのにもかかわらず、実社会での現状はこれにはほど遠いものです。私はこのような状況に危惧の念を抱いております。

実に長い文章をだらだらと書いてしまいましたが、最後に。松本さんは、幅広い人々に対するインターネットの普及について、語っておられますが、そのためには「インターネットに慣れ親しんでいない人達」が懸念するある種の不確実な要素をすべて排除すべきとお考えでしょうか。不確実な要素が無く「安心」してインターネットを使える体制を整備するために、広汎な規制を敷くことようなことが妥当であるとお考えでしょうか。もしそのようなお考えをお持ちでしたら、私はそれには同意できません。また、『「インターネットに対する社会的反感を拡大させない」という「より大きな目標」の為に、何とか我慢して頂きたいと思います。』と述べていらっしゃいますが、うがった見方をすると、言ったーネットの普及という目標を隠れ蓑にして自分らの事業の拡大や利益のために、自分以外の他者のみに犠牲を求めているように聞こえますがどうなのでしょうか(私の考えが単なる思い込みであることを願っております)。

それでは今回はここまでということにさせていただきます。また、機会がありましたらお考えをお聞かせいただけると幸いです。

*今回述べたことについて、私が対象としているのはあくまで「紙の上に描かれている、あるいはモニターの向こうにしかいない幻想上の人物」のみを対象としております。実在する人物については、当然別の考え方や対処があってしかるべきでしょう。

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