「ハード・ソフト一体論」の罠 - 松本徹三

2009年09月26日 17:04

私は最近の状況はあまり知りませんが、かつて、総務省の前身である郵政省には一つのジンクスがありました。それは「放送政策課長になれば胃腸障害で入院する破目になる」ということでした。それほどまでに、民放各社は常に放送行政に神経を尖らせており、少しでも懸念があれば、強烈なプレッシャーをかけてきたということです。しかもその多くは大物政治家経由ですから、官庁側の担当課長が胃腸障害を起こすのも無理からぬ事だったのでしょう。


これは、かつて郵政省のトップにおられた或る方から聞いた話ですが、自民党の或る大物政治家のところに或る件の報告に行ったところ、「民放連はそのことについてどう言っているのか?」とご下問を受け、「既に了承を得ています」と答えた由。そうすると、その大物政治家は黙って目の前の電話機に手をやって、ピポパポポピパと軽やかにダイヤルパッドを叩き、某大手テレビ局の会長を呼び出して、その場でその事の確認を取った由です。

物忘れがひどくなっている筈の高齢の大物政治家が、相手の電話番号をソラで憶えているということは、毎日のように電話をかけているのでなければとても出来る事ではありません。この逸話は、大物政治家と大手既存メディアのトップがそのように近い関係なのだということを如実に表わしています。

世の中の多くの人達は、高級官僚というものが巨大な力を持ち、世の中のことを好きに動かしていると信じている節がありますが、官僚というものは生来「下には強いが上には弱い」ものらしく、大物政治家や、彼等が気を使う既存メディア(第4権)のトップの前では、蛇ににらまれた蛙のようなものなのかもしれません。一般大衆が、この構図をよく理解せずに「官僚叩き」だけして喜んでいると、手痛いしっぺ返しを受ける事になるでしょう。

小泉内閣時代の「IT戦略本部」
http://www.kantei.go.jp/jp/it/network/dai9/9siryou7.html
での議論を今読み返してみると、「放送と通信の融合」ということが盛んに言われており、その後の「竹中懇」でも相当の議論がされたようでしたが、現時点では、この議論は「竜頭蛇尾」の状況のようで、既存放送業界もリラックスしているように見えます。

「放送と通信の融合」の議論の目玉の一つは、地上波テレビのコンテンツのインターネット配信でありましたが、当時、民放連などは、これを「ソフトとハードの分離」であるとして、激しく抵抗したようです。この事については、相当昔の話ではありますが、IT戦略本部小泉本部長宛の、民放連の氏家会長名の平成14年1月18日付の書簡(連会第121号)、及び(社)日本新聞協会メディア開発委員会稲田会長名の同年1月30日付の書簡(新協1427号)が、その論拠の全てを語っていますので、ご参照ください。但し、食事前に読むと、その「上からの目線」に辟易して、食欲がなくなる恐れがありますから、食後に読まれる事をお勧めします。

(ところで、何故新聞協会が「放送」の事について、民放連と殆ど同じ事を述べた意見書を、殆ど同じ時期に出したのかは、奇妙といえば奇妙ですが、日本では5大新聞社と5大テレビ局の経営は実質的に一体ですから、「政治的圧力をより強くする為に、民放連が新聞協会に依頼した」と考えれば、これは簡単に読み解けます。)

私は何事についても常に色眼鏡でものを見る事がないように心がけていますので、誤解を生じない様にあらかじめ申し上げておくと、私は、別に当時のIT戦略会議の中間報告を全面的にサポートする立場でもありませんし、現時点でこの議論が「竜頭蛇尾」になっているのが、政治的圧力故だったとも考えておりません。

政治的圧力は望ましいことではありませんが、それがあろうとなかろうと、その時にIT戦略本部の改革専門調査会が推進しようとしたことには、若干無理があり、議論は所詮「すれ違い」に終わる運命にあったように、私には思えるからです。

当時から、衛星放送やケーブルTVではソフトとハードは基本的に分離されていたのであり、地上波放送だけが「ソフトとハード一体の運営」だったわけですが、IT戦略本部の意図も、現実にソフトとハードを一体として運営している地上波放送に、その変更を「強制」しようとしたものではなかった筈です。しかし、当時の民放連の書簡などを見る限りでは、「これが強制されるのではないか」という危機感が読み取れます。

ソフトとハードを一体化するか分離するかは、当然各事業体が自由に選択できるべきであり、国がまさかその「自由」を制限しようとしていたとはとても考えられません。国がやろうとしていたことは、「ハードとソフトの一体運営だけが唯一のあるべき姿である」という民放連などの硬直的な姿勢を否定し、「ソフトとハードを分離するのも、一つの選択肢でありうる」事を、明らかにすることではなかったかと思います。

(ちなみに、最近携帯通信の世界でも、総務省に似たような動きが見られましたが、ここでも、「一体運営(エンド・トゥ・エンド・サービス)が『禁止』されたり、分離サービスが『強制』されたりする事はありえない」ことは確認されました。「放送事業者にしろ、携帯通信事業者にしろ、限られた電波資源を寡占しているという現実の上に胡坐をかき、ユーザーが求め、コンテンツ製作者が供給できるサービスを『不当に制限』してはならない」というのが、総務省が言いたい事だったのだとすれば、それは至極当然の事であって、誰もあまり神経質になる必要はないと思います。)

通常のテレビ放送番組が後々インターネットで配信されるのを不可能にしているのは、通常「著作権処理の問題」故とされていますが、テレビ局側にも、「そんな事を許すと視聴率の把握が出来なくなり、結果として広告料の確保が難しくなるのではないか」という懸念があり、むしろこちらの方が大きな問題なのだという人もいます。しかし、視聴のログを取るのは、放送システムよりもネットの方がむしろ得意にしていることであり、これもどうもよく分からない話です。

しかし、現実に各テレビ局が自らの責任で制作した番組をどう扱うかは、各テレビ局の自由であり、国や第三者がとやかく言える問題ではないことは明らかです。私がテレビ局なら、折角作った番組はあらゆる方法で潜在的な視聴者の目に触れるように、「二次利用」「三次利用」に当然最大限の努力をするでしょうし、その為にISPや携帯通信事業者とも広く交流するでしょうが、これはもとより各テレビ局の経営者が決めることです。

少なくとも、NHKが、遅ればせながら「見落し番組のインターネット経由での配信」や「アーカイブの提供」に積極的に取り組み始めたことは、歓迎すべきです。また、テレビ受像機のメーカーは、「今後は、大画面テレビが種々のインターネットサービスをリビングルームで楽しむ為の重要なツールになる」と考え、種々の開発を進めているようですから、「自然の流れ」が、これから時代を徐々に変えていくでしょう。

それよりも私が気になるのは、既存テレビ局が、「電波の希少性がそれ程でなくなり、誰でもが簡単に多種多様な番組を受信することができるようになる」といった事態を歓迎せず、その為に、電波の割り当てや新しいタイプの放送免許の出し方に、その大きな政治力を駆使して、色々な干渉を行う可能性があることです。

そもそも現在の地上波テレビ局が持っている絶大な力の源泉は、希少なVHF周波数の免許を受けた事にあります。従って、民放連などが「ハードとソフトの分離問題」を論じる時に使う「ハード」という言葉は、実質的にはこの周波数免許の事を言っていると考えてもよいと思います。

一般の視聴者が、UHF放送や衛星放送、ケーブルTVなどを受信しようとすれば、ハードに通常以上のコストがかかり、面倒でもありますから、大方の視聴者は、大部分の時間をVHF波放送のみを視聴して費やすことになります。そして、その視聴時間はそのまま広告価値の源泉となっています。従って、現在のVHF地上波テレビ局は、居ながらにして優越的な地位を享受していると言え、その地位を簡単に手放すとはとても思えません。

デジタル化によって、全ての地上波テレビ局はUHFを使うことになり、これまでのようなUHF局とVHF局の格差は今後はなくなる理屈ですが、何故かまだその兆しは見えてきていません。(何故なのでしょうか?)

衛星放送は、これからチャンネル数が大幅に拡大されようとしていますが、「もしかしたら」と思われていた周波数の入札は、結局行われませんでした。(「入札」を強く主張する人は現れませんでした。)そして、結果として、新規参入者の殆どには広告放送は許されず、既存テレビ局は広告市場の競争激化を免れました。

ケーブルTV局は、今、NTTのNGNに大きな脅威を感じています。前述の通り、地上波放送以外の世界では「ハートとソフトの分離」は常識であり、ハードに特化したNTTや、ソフトに特化したHOG(Head End on Ground)事業者は色々な事が出来ますが、「ハード・ソフト一体」で事業を運営してきたケーブルTV会社は、今後は難しい立場に立たされるかもしれません。しかし、圧倒的な力を持ったVHF波を寡占して、独自の世界で生きている既存テレビ局にとっては、これは当面は「対岸の火事」のようなものでしょう。

何れにせよ、将来の放送のあり方を考え、論じるにあたっては、「官僚」と「政治家」と「政治家に強い影響力を持っている既存テレビ局」の関係をよく監視し、密室の中での話し合いによって、ユーザーのメリットが害われることがない様にする必要があります。

そして、各大手新聞社が地上波テレビ局と一体である現状(これこそが真っ先に正されなければならないことなのかもしれませんが…)においては、ここでもやはり、インターネットが相応の役割を果たしていかなければならないでしょう。

松本徹三

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