だれのせいでもない。自分が悪い。そんなつぶやきに共感する若者が多いらしい。先日NHKテレビでそんな番組を見た。現在の不遇な環境、不幸は社会の責任ではないし、まして親の責任でもない。だからいくら困窮しても助けてといえないのだそうだ。30代の若者の現象らしいのだが、日ごろ学生を見ていて同じように感じることがある。心優しいのか、誰が悪い、社会が悪い、教師が悪いなどといわない。毎日の生活に被害者意識が薄い。私の子どものころは、毎日食うものに困り、親からは家業にこき使われ、何もいいことがなかった。なぜこんなに自分は不幸なのか、と思うと同時に、自分が悪いから不幸なわけではない、周りが悪いのだと考えた。事実社会はまだ貧しかった。家業は二度も倒産した。社会への関心政治への関心はそのころから生まれた。
だからテレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。
90年代の就職氷河期に社会に出た人たちに見られる現象らしいのだが、昨年来また就職氷河期である。いま就職できない若者はやはり自分が悪いと考えるのだろうか。
大学は出たけれどという言葉が昭和恐慌のあと流行した。その後、軍部の青年将校たちが腐敗した政治を正そうと決起し、それが逆に軍部独裁と破滅的戦争へつながった。
いまも大学は出たけれど、パートやフリーターしか職がない若者がいる。農山村も疲弊している。海外進出しないと中小企業も生き残れない。状況は昭和恐慌の時代と似ている。でも若者は不満をあらわにしない。
社会保障が整備されているから。食糧の絶対的不足がないから。社会が豊かになったから。いろいろ理由は考えられるが、現代の若者は不平をいわない。
もうデモやストだけが社会的表現手段だった時代ではない。ネットなどでいくらでも表現できる。それらが重なり合って政権交代が実現したではないか。あれが現代の不平の表れだといわれるかもしれない。
今朝新聞を読んでいたらこんな記事があった。冬季五輪の会場、バンクーバーでホームレスや低所得の人たちが貧困オリンピックを開催、イベントを繰り広げながら「富めるものの五輪より、貧しいものへの支援を」訴えたとあった。日本だと年末年始に派遣村が開かれ、ホームレスや失業者が一時しのぎに集まる。彼らはイベント開催どころか、声を上げることさえしない。
日本には彼らが貧しいのは自己責任だという風潮がある。いつからこんな風潮が広まったのかは知らないが、不当に弱者に追いやられた人々が不満の声をあげられない社会をわれわれはいつの間にか作り上げてしまった。
母親から毎月1500万円も贈られながら「知らなかった」人には、貧しくて声もあげられない人たちの心情などとても想像できないことだろう。
コメント
日本における自殺者の数は、98年に何故か一気に7000人以上も増え、現在12年連続で3万人以上!を更新中です。その一方で、全国で発生した殺人事件の数は2000年を境に減り続け、2009年は「戦後最低」を記録したとか?
>大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。
そのインターネットが、不満や不平を吸収するブラックボックスと化し、人々の精神状態を内向させている面があるかも知れません。特に我が国のネット社会は特有のムラ社会であり、個々の人間に過剰に自己責任を要求する装置に転化しやすい…、
であるならば、「ネットを捨てよ、街に出よう」と誰かが言い出しても良さそうなものですが、そう言い切るには、自分たち自身がパソコンやケイタイやi-podや電子端末の恩恵にあまりにも属しており、すでに骨肉化されたものなので、そこから脱け出すのは容易なことではないというオチ?になっているのでは…?
母親から毎月1500万円などという批判は幼稚にもほどがある。
なんでも人の責任する人間よりもいいと思いますが?
ストライキができないのは、ひとつの会社に飼いならされろという風潮を作ってきた社会のため、経営者が好き勝手していることをご存知ですか?その社会を作ったのは誰ですか?母親から毎月1500万円もらった人ではないですよね?
では逆に、困窮している人たちの原因を作ったのは、誰のせいだとお考えですか?
私は、これは昭和時代の日本設計の誤りだとか、冷戦の崩壊だとか、新興国の勃興だとか、情報化時代への変化だとか、それ以外にも、非常に多くの原因があると思います。
総括すれば、世界のせいだと言える、しかし、だからといって、世界が悪いと嘆いても全く意味がないじゃないですか。
それなら自分が悪いと思うか、誰も悪くないと思うのが正解ではないでしょうか。
20代後半としての実感ですが…
今の50~60代以上は自らを省みることがない、自らの間違いを認めない傾向があるように思います。
それはある意味逞しさでもあり、その世代の人間からしてみれば、今時の若い奴らは物足りない!という事になるんじゃないかと思います。
そうしたパワフルな方達が今のような暗い日本を作ってきたわけで、いい加減にそろそろ自責するべきではないかと。
この問題の本質は「社会」と「個人」との間に隔絶が起きはじめているということです。
近代国家というのは「個人」が「社会」の構成物であるという刷り込みに成功したものなのですが、なんと日本では逆転現象が置き始めている(そもそも「個人」が存在しなかったという問題設定も有るだろう)。政府が福祉国家的な社会を目指して「個人」の「社会」への取り込もうとしているのに反して、「個人」は「社会」から離れていく。アメリカと違うのは国家に対する積極的不支持ではなく消極的失望的不支持ではあるが。オバマのように「物語」によって「個人」を繋ぎとめることができるのか、否か。経済構造の脱近代化が迫られている今、まさに日本における脱近代社会の夜明け。
これは人類にとって長期変動的な流れである。などと愚考します。
この番組、偶然見ました。
文句を言わない人がいる一方で、クレーマーとか
モンスターペアレントが話題になっています。
文句を言わない人とクレーマーは年代が違うのかも
しれませんが、両方とも本当かな?と思いました。
派遣村のように、ごく一部の人がやっていることを
取り上げているのではないかと思ったからです。
本当だとしたら、その原因は両方とも「人間関係が
疎遠になっているから」ということになるのでしょうか。
ではなぜ、人間関係が疎遠になったのか。
本音で話す機会が減ったから?
なぜ、本音で話す機会が減ったのか。
人間関係が疎遠になったから?
考えても、よくわかりません・・・
>5. advanced_future2010年02月10日 09:56
この問題の本質は「社会」と「個人」との間に隔絶が起きはじめているということです。
近代国家というのは「個人」が「社会」の構成物であるという刷り込みに成功したものなのですが….
え?逆でしょう?近代国家(市場)は、『個人』を作ることで、
需要(w)を拡大させてきたんでしょう?
特に、第二次大戦後のアメリカ化はイスラム社会から敵視さらるほどの個人すぎですが。そもそも、第二次大戦で人類文明は、ファシズムを否定したわけですけど。w
「需要」を拡大させるには、家族をバラバラにして孤立させればよいわけで、単純な例を示すとすれば、「電話」が一家に一台(その昔は集落に1台だったんだがw)が、各個人に1台になれば、最低倍の需要ということになる。
農村型の共同体から都市型の生活への移行により、
より「個人」にバラしたことにより、購買欲(力)と不安感が同時に増大したわけですが、デフレにより購買力が無くなり、
「不安感」だけ残る状況なのでしょう。
つまり、『買い物依存症』。
説明不足があったのを今更ながら気づいたのでコメントさせてください・・すみません。
先のコメントの「近代国家というのは「個人」が「社会」の構成物であるという刷り込みに成功したものなのですが・・」の部分は、海馬1/2さんのコメントと基本的には同じことを言ってます。誤解のないように書けば”『「個人」を作って、それが「社会」の構成物である刷り込みに成功した」』でした。その上で、「個人」が消費活動を減退させるのは「社会」というある価値観を共有する枠組みから離脱し始めているからであり、しかし以前まで日本には「個人」がなかったから「個人」を前提としない「社会」が残っており、ゆえに「個人」を引き止める力がない、「新しい公共(コミュニタリアニズム)」はこの流れを止めるコンセプトだが、個人的に長期的変動として「個人化」は止められないと思う。そういう問題意識でした。