冒険者は危険を冒さない。なぜなら、冒険者の自覚では、危険は完全に制御可能なものとして認識されており、危険に対する姿勢において、危険を冒すという表現が不適切であるような境地にあるからである。
大航海時代に、未知の世界へ向けて出帆した冒険者は、航海の成功を信じ、生きて港に帰ることに少しの疑念も抱かなかったに違いない。もちろん、危険であることは承知していただろう。しかし、いかなる危険も克服できるとの自己の能力に対する自信のもとでは、危険の存在は少しも出帆を妨げる要因にならなかったはずだ。
未知の世界への航海は、冒険者にとって、それ自体が目的だったのではない。巨額な経済的利潤が強い誘因として働いていたのだ。ならば、そこには計算があったはずだ。予想される危険も計算されていたに違いない。そして、計算の合理性は確信を強め、自信と計算が融合したとき、危険は完全に制御下におかれたものとなったのである。
危険は不確実なものである。起こることが事前に確実なものとして知られている事故や災害は、もはや、事故でも災害でもなく、その対策費は予定に組み込まれた費用となり、完全な制御下におかれる。逆に、危険が完全な制御下におかれたならば、もはや、それは危険ではない。故に、冒険者は危険を冒さないのである。
さて、ここでいう危険は、多くの場合、リスクと呼ばれている。敢えて片仮名でいう実益を考えるに、危険は単なる危険だが、リスクは制禦された危険ということになる。そこで、危険に替えてリスクという言葉を用いるならば、冒険者はリスクを冒さないという表題になる。
さて、冒険者はリスクを冒さないというのは、客観的に存在するリスクを主観的に認識していないという意味である。客観的にみれば、明らかにリスクを冒しているのである。しかし、冒険をするのは冒険者本人だから、他人は関係ない。航海という行為の実践が問題であるとき、傍観者の立場に何の意味があろうか。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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