澤昭裕
国際環境経済研究所(IEEI)所長
(産経新聞「正論」転載)
5月21日、大飯原発運転差し止め請求に対し福井地裁から原告請求認容の判決が言い渡された。この判決には多くの問題がある。
専門技術知識欠いた判断
第一に論理の乱暴さである。判決は、「(新しい)技術の危険性の性質やそのもたらす被害の大きさが判明している場合には、技術の実施に当たっては危険の性質と被害の大きさに応じた安全性が求められることになるから、この安全性が保持されているかの判断をすればよいだけ」とし、危険性を一定程度、容認しないと社会の発展が妨げられるのではないかという議論を切り捨てている。
だが、まさにその「危険の性質と被害の大きさに応じた安全性」を確保するため原子炉等規制法が改正され、福島第1原発事故の反省に立って規制基準を厳格化したうえで原子力規制委員会が新基準適合性を審査しているのだ。
判決は「人格権」の保護という法理から裁判所は直接的に危険性の有無を判断できるとし、「行政法規の在り方、内容によって左右されるものではない」として規制委の判断は無関係だと言う。
しかし、福島事故後に改正された新炉規制法は「国民の生命、健康及び財産の保護」を法目的に謳(うた)い、「人格権」自体を保護するための法律であることを明確にしている。判決はこの点を全く無視して、あたかも裁判所のみが人格権保護の役割を持っているかのような態度を取る。そのうえ、炉規制法に基づく新規制基準の適否について評価もしないまま、原発の危険性について独断的説示を行っている。しかも、その検討内容はずさんだと言わざるを得ず、判決後に専門家からさまざまな技術的誤りを指摘する批判が出ている。
こうした批判は事前に予想していたとみえ、判決は「(人格権の法理)に基づく裁判所の判断は…必ずしも高度の専門技術的な知識・知見を要するものではない」と予防線を張っている。専門技術的な知識に基づく規制委の規制基準と必ずしも専門技術的な知識に基づかない規制基準が二重に存在することになるという点について、判決は何も語らない。
「ゼロリスク」求めた愚
第二に「危険性」と「安全性」の定義を明確にしていないため、判決自体も混乱していることだ。前述の通り「安全性が保持されているかの判断をすればよいだけ」と自ら述べつつ、その後で「かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべき」としている。判決はこの二つの議論を同義だと考えているようだが、誤りである。
裁判官が安全規制の本質を理解していない証左だろう。原子力を含む全ての技術に危険性が存在することを所与のものとして、その危険性が顕在化する確率を最小化し、顕在化した際の被害を最小限に食い止める対策を施すのが安全規制の根本的な考え方なのだ。
判決に際しては、「危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべき」ではなく、差し止め請求を受けている原子力事業者が、リスク(危険が顕在化する確率とその際の被害の大きさ)を最小化するため適切かつ十分な対策を取っているかどうかが、判断の対象とされるべきなのである。
この本質論を裁判官が理解できない限り、「ゼロリスクでなければ原発を動かすべきではない」という一見尤(もっと)もらしい判決が今後とも増える懸念がある。それを避けようとすれば、原子力事業者は訴訟で実質ゼロリスクを証明することが必要となりかねない。すなわち、これは「原発を動かしたければ、原子力事業者は再び安全神話を語って世の中を説得せよ」と求めるに等しい判決なのである。
累は全てのインフラに及ぶ
第三は、本判決というより、訴訟の構造問題とでもいうべきものだ。つまり、原発のみならず全てのインフラは何らかのリスクを有していると同時に、公益的な利便も提供している。インフラに隣接する住民が人格権に基づいて当該インフラの運転差し止めを求め、裁判で、その請求が認容された場合、インフラの機能は停止し公益的な利便も失われてしまう。
裁判所は、具体的な事案に限定して局地的な解決を判示することしかできない。公益的な利便を維持するために何が必要になるかを考える必要も責任もない。インフラ機能停止によってもたらされる混乱や公益の喪失は、行政にそのしわ寄せがくることになろう。
判決を下す前に、それによって予想される混乱や公益の喪失をカバーするための行政との調整が行われるような制度的な仕組みはない。であれば、判決を行う裁判官の良識に頼るしかない。
今回の判決は、電力需給問題、電気料金、温暖化ガス排出問題などは原発の危険性に比べれば取るに足りないかのごとき扱いをしており、世間の喝采を受けている。しかし、私から見れば、本判決は個別的請求に対する答えでしかないのだという防壁を築きながら、一方で公益の喪失との調整の必要性については、想像力が遠く及んでいないものでしかない。