キッシンジャーの警告と日本の核武装

八幡 和郎

キッシンジャー元国務長官(Wikipedia:編集部)

キッシンジャーが北朝鮮の核武装は日本の核武装をもたらすだろうと主張している。

北朝鮮核開発、日本の核武装招く(Japan In-depth) 

「北朝鮮の核の脅威が強まると、日本や韓国、ベトナムなどの諸国が自国の防衛に核兵器を盛り込もうとするインセンティブが劇的に高まる。この傾向は東アジア地域にとっても、全世界にとっても不吉な展開となる」

「日本の安全保障の歴史はもう何千年も朝鮮半島と結びついてきた。日本の国家安全保障の概念では自国が核武装することなしには朝鮮半島の核兵器保有をいつまでも許すはずがない」

この思考はきわめて論理的なものだ。キッシンジャーのような合理的にものを考える人間ならば、北朝鮮が現在の水準であっても核兵力を維持するなら日本も核武装するしか選択肢がないという結論にしかならないというのは自明の理だからだ。

アメリカにとっては、アメリカ本土を攻撃するに至っていない現状程度なら凍結でも我慢できる範囲だが日本にとっては、北朝鮮が日本に何かを呑まそうと思うなら核の脅しで何事も思いのままになりかねない、いまの状態は我慢できないはずだということになる。

特に、北が核をもつことを許すことは、南北統一の際に統一朝鮮が核武装することにもつながりかねない。しかも、南北統一する場合には、統一を維持するイデオロギーとして反日ナショナリズムを使わざるを得ないだろうことも考慮しなければならない。

そうした統一朝鮮の侵略を防ぐために、もし、それが、核武装していないなら、自衛隊の強化で対抗できるだろうが、核武装すればそれではすまない。

となるとアメリカに守ってもらうしかないが、それは経済問題などで無限の譲歩を強いられるか、通常兵力の範囲において、アメリカへの軍事協力をして世界中どこでも戦争にいくくらいのつもりでなくてはなるまい。

しかし、キッシンジャーのように合理的に考える日本人がそう多くいるわけではない。

私は憲法第9条維持派である。いまのところ、第2項も維持し、第3項を新設する程度なら場合によっては選択肢と思っている程度である。核武装についても反対である。

しかし、今後何があってもそうでなければならないとも考えていない。

もちろん、未来永劫、反対というなら、その結果として、日本は半島からの核の脅しになんでも屈して、場合によっては九州を割譲したり、日本統治時代の償いを無限に要求されたり、慰安婦の復讐だといって20万人の女性を強制連行されたりされても我慢するしかないなら、それも選択かのしれないが、日本の理想主義者は功利的な楽観主義者でしかないから、そんな覚悟はない。

あるいは、先に書いたように、アメリカの要請があれば、世界中どこでも通常兵力での軍事行動はお任せあれという体制を整えて、そのかわりに核の傘を強固にする手も選択肢としてはある。しかし、それもいやなのだろう。

かつてなら経済で協力してアメリカにとってなくてはならない国であればなんとかなるということも選択肢だったが、もはやそれが説得的であるほどには日本の経済は強くない。

となれば、日本はみずからの核武装の可能性を取引材料にして北の核兵力の解除を要求するしかないのだが、それには皆さん反対らしい。

核武装の可能性を自ら放棄することは、周辺諸国の核武装の危険を増すのは自明の理だったのだが、その冷厳な事実から目をそらすことを政治的、あるいは、北朝鮮などの利益に資するために推進してきた人たちがいるし、いまも健在だ。

私はいまのうちなら北の未熟な核兵器の攻撃対象になるわずかの可能性を覚悟しても、引かない、場合によっては「日本の核武装の可能性もないとはいえない」と日本人も思っていることを示すことで、アジアのパワーバランスが維持され、日本自身が平和国家としての存立基盤を維持できる最後のチャンスがまだ残っていると思う。

しかし、そういっても無駄らしいことも認めざるを得ない。自殺願望の国民の未来などどうでもいいと考えでもしないと正気でおれない気分だ。

誤解だらけの平和国家・日本 (イースト新書)
八幡和郎
イースト・プレス
2015-10-10