「チェコ連邦」の解体が決まった日

チェコスロバキア連邦を解体し、「チェコ」と「スロバキア」両共和国の独立を決定した「ブルノ交渉」が開かれてから今月26日で25年目を迎えた。1993年1月1日から独立国家の両国はその後、欧州連合(EU)、そして北大西洋条約機構(NATO)の加盟国となって今日に至っている。

▲インタビューに応じるスロバキア初代首相メチアル氏(1993年3月13日、ブラチスラバの首相官邸で撮影)

▲インタビューに応じるスロバキア初代首相メチアル氏(1993年3月13日、ブラチスラバの首相官邸で撮影)

旧チェコスロバキアは1918年、建国されたが、チェコ民族とスロバキア民族間には絶えず小競り合いが生じ、相互不信が強かった。両民族は「チェコ共和国」と「スロバキア共和国」に分かれたが、旧ユーゴスラビア連邦の解体とは異なり、チェコ連邦の解体(通称・ビロード離婚)は民族紛争もなく平和裏に遂行されていった。近代史では珍しいケースだ。

興味深い点は、チェコ連邦の国民の多数は当時、連邦解体を希望していなかったという事実だ。ただし、チェコ側もスロバキア側でも連邦の解体に関する国民投票は実施されず、政府と議会での討議後、連邦解体が決定された。スロバキアのウラジミール・メチアル元首相は、「チェコ政府側は経済力の脆弱なスロバキアから離れたいという意向が強かった。連邦解体はチェコ側が久しく願ってきたプランに基づいて遂行されていった。スロバキア側はそれに抵抗する手段はなかった」と、オーストリア日刊紙プレッセとのインタビュー(26日付)の中で述懐している。

連邦解体のプロセスを振り返る前に、チェコ連邦の民主化を考えてみた。ソ連共産党政権はチェコの民主化運動「プラハの春」(1968年)を強権で弾圧した後、プラハを中心として中央集権的なやり方でチェコ全土を支配していった。そのため、スロバキア国民は、「われわれはプラハとモスクワに管理されている」といった不満が常にあった。

そして1989年の旧チェコスロバキアの民主改革(1989年、通称・ビロード革命)では、チェコとスロバキアでは全く異なったプロセスが進行した。チェコではバツラフ・ハベル(民主化後の初代大統領)を含む左派知識人を中心とした政治運動が主導を握り、スロバキアではカトリック教会を中心とした宗教の自由運動が民主化の原動力となっていった。チェコでは宗教の自由運動はほとんど見られなかった。

ちなみに、チェコ民族の特長は宗教改革者ヤン・フスの「反カトリック主義」の影響が色濃い。ワシントンDCのシンクタンク、「ビューリサーチ・センター」によると、民主化後のチェコの宗教事情は、キリスト教23・3%、イスラム教0・1%以下、無宗教76・4%、ヒンズー教0・1%以下、民族宗教0・1%以下、他宗教0・1%以下、ユダヤ教0・1%以下だ。無神論者、不可知論者などを含む無宗教の割合が76・4%になる。キリスト教文化圏で考えられない数字だ(「なぜプラハの市民は神を捨てたのか」2014年4月13日参考)。
チェコ人は宗教色の強いスロバキア人とは明らかに異なっているわけだ。その意味で、旧ソ連共産政権の支配から解放されたチェコ連邦が連邦解体に向かったのは自然の流れだったともいえる。

メチアル元首相(当時スロバキア与党「民主スロバキア運動」党首)の証言によれば、スロバキアはチェコと公平な連邦システムを築いていきたいと期待していたが、チェコの与党「市民民主党」のバーツラフ・クラウス党首との交渉(1992年8月26日、ブルノ)で連邦解体という話に急展開していったという。そして、1993年1月1日を期してチェコとスロバキアの両主権国家がスタートすることになった。

分断後、チェコ経済はクラウス政権のもと急速に市場経済を導入し、経済改革を施行したが、メチアル政権は緩やかな改革を実施していった。チェコはEUの模範国となったが、スロバキアはメチアル首相の独裁的政治がブリュッセルから批判される時代が続き、欧州の統合プロセスではチェコより後れを取った。

25年が経過した今日、チェコはブリュッセル主導のEU政策に批判的となってきている。一方、スロバキアは2009年、ユーロを導入するなど、経済面では順調に発展してきた。

当方は1993年3月、首都ブラチスラバの首相官邸内で独立国家スロバキアの初代首相のメチアル氏と単独会見したことがある。メチアル氏は新生国家が抱える諸問題について、意見を述べてくれた。印象に残っているのは、メチアル氏が、「連邦解体プロセスは、民族の共存を志向する理想主義的な熱情と、自国の利益を最優先する国益中心主義的傾向のぶつかり合いだった」と証言したことだ。ブルノでの交渉では、クラウス氏との間で激しいやり取りがあったことを彷彿させる発言だった。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年8月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。