2000年前のイエスの福音をその文字通り受け取り、信じるキリスト信者がいる。葡萄畑も少なくなり、羊や羊飼いももはや多く見られない21世紀の社会でイエスのたとえ話を読み、その通り受け取ろうとするから、その理解は観念的となり、時には非現実的となる。
同じことがイスラム教の聖典コーランでもいえる。1400年前の聖典を21世紀の現代社会にも完全に適応しようとするから、さまざまなな障害が生じている。シャリアを宣言したイスラム国(IS)はその代表的だ。石打ちの刑を今も実施するイランでもそれがいえる。サウジアラビアでは女性は車を運転することすら禁止されている。あれも、これも聖典に基づくという。
「真理は時代的変遷の影響を受けない」と主張し、聖書の時代的解釈を拒否する神学者や信者グループが存在する。通称キリスト教根本主義者と呼ばれるグループだ。オプス・デイ(神の業、1928年、スペイン人聖職者、ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲルが創設)、ガブリエレ・ビターリッヒが創設した「ワーク・オブ・エンジェル」(「天使の業」)などと呼ばれる信者グルーはそれに属する。彼らは聖典の時代的解釈をあたかも不敬な行為のように受け取る。なぜならば、イエスは2000年前、真理を語ったのであり、真理は一つだ。それを時代が変わったからといって勝手に解釈するのは不敬だという論理だ。
その主張の一部は正しいが、多くは間違っている。正しいのは「真理は不変だ」という点だ。間違っているのはその真理は時代的変遷の影響を受けないという頑迷な姿勢だ。真理は変わらないが、その表現方法は時代の変化に従って変わるからだ。
ドイツで制作中の映画「帰ってきたヒトラー」(「ヒトラーはモンスターでなかった」2014年12月10日参考)に倣って、「帰ってきたイエス」の状況を想像してほしい。「帰ってきたイエス」は21世紀に生きるわれわれを前にして2000年前と同じような表現でその福音を語るだろうか。どこに羊と羊飼いがいるのか。ペテロのような漁師を探し出すのも大変だ。彼らは大きな船舶で遠洋漁業に従事しているからだ。イエスが会った売春婦は21世紀の社会でもいるが、特定な場所に行かなければならない。葡萄畑のたとえ話を背広姿の現代のビジネスマンが理解するのは一苦労だろう。
「帰ってきたイエス」は必然的に新しい表現でその真理を伝えるだろう。より多くの人々に分かりやすく説明しようとすれば、その時代の社会で使用される表現形式を利用するのは当然だからだ。
イスラム教圏の中東諸国では現在、キリスト教徒への迫害が激しい。イラク、シリアなどで少数宗派のキリスト教徒はイスラム根本主義勢力によって迫害され、追われている。イスラム教徒によれば、イスラム教徒ではないことはアラーへの不敬と受け取られる。非イスラム教徒の迫害は敬虔なイスラム教徒の義務と考えられるからだ。
新・旧約66巻から成る聖書の文字に囚われた結果、イエスの福音を信じるキリスト教会は現代、300以上に分かれている。各団体が我々の解釈こそ真理だと主張し、他を批判する。キリスト教だけではない。イスラム教のコーラン(114章構成)でも同じだ。そのような混乱を回避するためには、われわれは一度は聖典の文字から解放される必要があるだろう。
繰り返すが、問題は聖書やコーランにあるのではない。そして「聖典」が先にあったのではなく、救いを必要としていた「多くの悩める人々」が先ず生きていたのだ。逆ではない。「聖典」の文字の奴隷になってはならない。「聖典」の文字から解放された時、「聖典」が伝えようとした真意がより一層理解できるかもしれないのだ。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年12月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。