前回のブログの最後にこう書いた。
<国民の多くは自衛隊や海保を米軍同様、一種の傭兵のように考え、自分と密接な関係にある国防軍とは考えていない、自分の問題として国防を意識していない、と見るのは穿ちすぎか。当っているとすれば、それはやはり不健全である。私自身は憲法改正へと動くべきだと考えている>
これを書いたとき、以前紹介した福田恆存氏の「当用憲法論」や「言論の空しさ」を意識していた。
再読してもらえば、要点はわかってもらえると思うが、ダメ押し的にもう一つ、福田氏の「人間不在の防衛論議」の一部を引用したい(35年前の中央公論昭和54年10月号に掲載され、同名の著書にまとめられ新潮社から刊行された。「言論の空しさ」=初出は「諸君!昭和55年6月号=もそのあとがきの形で再録されている)。
<(憲法を改正しないまま自衛隊を拡充するという)「欺瞞」が長く続けば続くほど、日本国民は法と政治に対する信頼感を失ひ、馴れ合いと偽善に蝕まれ……た人種に成り下がるであらう>
<このやうな偽善を偽善と感ずるコンシャンス(意識・良心)を持たず、何の後ろめたさもなく自我を主張するかと思ふと何の誇りもなく相手に屈従する国民は、個人の場合と同様、国際間においても、どの国からも舐められ、突放され、最後には袋叩きにあふであらう>
これは「憲法改正などにこだわることはない。イザとなれば、日本人は進んで銃をとり、国を守る。『必要の前に法は無い』というじゃないか」という楽観論に対する福田氏の批判である。
第1に、今日の精密兵器や機械化組織に対応する軍事知識を持ち、行動できるようになるには訓練や知識修得に2,3年はかかる。昨日まで自衛隊にも兵器にも無関心で何も知らない国民がすぐに対応できるはずはない。
第2に、そんな良い加減な法意識が国民の間に蔓延しているのはかえって文民統制を危うくし、自衛隊という軍の暴走を許す口実を与えてしまうだろう、と福田氏は指摘する。
重要なのは自衛隊と国民がもっと密接になり、自分たちの国軍だという意識が国民の間に広がることだ。米国は徴兵制ではないものの、大学や高校で軍事教練の単位がある。必修ではなく、選択性だが、たくさんの学生が選択しているという。そうした習慣や仕組みが整ってこそ防衛の基礎が整う。
かと言って、福田氏は戦前のように独立国家として大幅に軍備を拡張すべきだと言っているのではない。
今日の国際社会の中で、完全な軍事敵独立と政治外交の自決権を持っている国は米国を除いて存在しない。否、超大国の米国といえども国際的な協調、妥協、同盟なしでの国益の保持は容易ではない。
しかし、基本は独立自尊、自分の国は最後は自分で守るという姿勢をとらねば、同盟国も相手にせず、防衛は難しい。憲法はその体制を確立する礎なのである。
それを前文と9条でごまかしてる現憲法では、国民の間で健全な法意識は根付かない。それどころか馴れ合いと偽善に蝕まれて行く。現に、そうなりつつあるではないか、と福田氏は危惧するのである。「必要の前に法律の解釈は無限に自由」とうそぶいている国民が多いことはその証左ではないかと。
<個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権の公使も認めるが、今は憲法を改正する必要はない。現憲法は戦前のような軍部の台頭、独走を防止するのに大切だ。憲法改正は周辺との緊張が高まる危険も大きい>
上記のような無節操な現実主義、事なかれ主義者は自民党内にも、学界にも経済界にも多い。
集団的自衛権の行使容認を先頭に立って進めた安倍晋三首相自らがその問題、危険を熟知しており、だから憲法改正の必要性を説いているのだろう。
しんどい作業だろうが、安倍政権はその精神で憲法改正への道を進んでほしい。
編集部より:この記事は井本省吾氏のブログ「鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌」2015年1月18日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった井本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌をご覧ください。