欧米のリベラル派に日本が攻撃されそうな難題のひとつにLGBT(同性愛)がある。なにしろ憲法第24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とあるので同性同士の結婚を認めることはもちろん憲法違反だし、類似の効力を認めることすら違憲の疑いが濃い。
そのあたり、立憲民主党はもっとも厳格な適用を主張すべきだし、たとえば、とりあえず、婚姻に類似の効力を認めて、あとで憲法改正時に手当てするのも、違憲状態の追認だからダメと仰らないと首尾一貫しない。
しかし、このLGBTを認めないから人権侵害だと欧米からいわれるのは、なんとも不愉快だ。
というのは、欧米に比べて日本は後進国といわれているが、それは最近のことだ。私が大学生時代には、刑法の平野龍一先生(のちに学長)から、次のように教わった。
「日本の刑法には欧米の国のそれと違って同性愛と近親相姦についての規定がありません。ただし、理由は別です。近親相姦は法律に書くことすらおぞましいから書いてないのです。ところが、同性愛はいけないこととは思われてこなかったから書いてない」
「葉隠れ」など、そういう関係に殿様とあった家臣が、殉死を禁止されて悶々として書いたといわれている。
殉死は、江戸時代のはじめに、そういう殿様と関係にあった家臣のあいだで広まり、さらには、それで遺族が加増にありつけるというので、特に、九州の藩で爆発的に流行し、その数を競うほどになったので、幕府が慌てて禁止したものだ。
『消えた江戸300藩の謎 明治維新まで残れなかった「ふるさとの城下町」』 (イースト新書Q)ではLGBTにまつわる理由で改易された殿様の話も書いている。
小倉藩主小笠原家の一族である小笠原吉次は、家康の四男で清洲城主だった松平忠吉の付家老として犬山にあり、忠吉の死後に佐倉を経て笠間3万石となっていたが、慶長14年(1609年)に改易された。、忠吉の近臣で男色関係にあった息子の忠重が一万五千石をもらいながら出奔したり、また、死後には増上寺で殉死をするといった事件もあり、その責任をとらされたとも見られる。松平忠吉は、その方面では有名だったらしく、ほかにも、いろいろエピソードが残っている。
金森可重の七男で酒井忠勝の猶子とされた酒井重澄は、家光の寵愛を受け、堀田正盛とともに「一双の寵臣」と呼ばれた。ところが、病気療養と称して屋敷に引きこもっている間に妻妾に子を産ませたとして家光に嫉妬され、勤務怠慢を理由に所領を没収され、かつてのライバル正盛が累進するのを見て己の境遇を嘆き食を断って自害した。
高松城と丸亀城を築いた生駒親政の実家は、尾張丹羽郡小折邑(江南市)に移り、土豪で商いも手広くやっていた。美濃の土田政久の子・親重を養子としたが、織田信長の母は、親重の姉妹であり、親重の子の宗家の娘が信長の側室で信忠・信雄・徳姫の母である吉乃だ。宗家の兄弟である生駒親正は、秀吉の配下に入り、1578年に讃岐一国を与えられた。
一正の孫・高俊のときに生駒一族と前野一族が争い国を奪われたが、このお家騒動のもとになったのが、高俊が男色にうつつをぬかし、あわせて、小姓たちに音曲をさせ、参勤交代の街道筋で披露するなどしたことだ。このころ、将軍家光が女性を近づけず、そちらの方面に熱心だったので、大名でも真似る者が多かった。老中たちも困っていたが、将軍に逆らえない。そこで、生駒高俊がみせしめにされたという面があったようだ。
これに限らず、大名家取りつぶされた理由にはなんとも馬鹿馬鹿しい話しが多いが、そのあたりを紹介したのが上記の拙著である。