自衛隊は生まれたときから、日米の「ねじれ」を背負っていた。1950年に警察予備隊ができ、それが保安隊という名称から自衛隊と改められたのが1954年だが、このときその性格をめぐって日米が対立した。アメリカ政府は日本が冷戦の一翼をになうために再軍備を要求したが、吉田茂はそれを拒んだ。
この背景にあったのは財政負担だけではなく、警察予備隊を創設した内務省系の警察官僚の軍への不信感だった、と本書は指摘している。予備隊の幹部には軍関係者も多く、特にGHQのウィロビーが服部卓四郎(東條英機の側近)を最高指揮官にしようと画策したことに警察官僚は強く反対し、吉田はマッカーサーと交渉して服部を排除した。
その後も服部は吉田の暗殺計画を立てるなど、50年代には軍関係者の不穏な動きが続いたので、当時としては再軍備を抑制する「吉田ドクトリン」には合理性があった。自衛隊の中枢となった警察官僚もこれを支持し、60年安保のときも治安出動に反対した。
自衛隊のような中途半端な軍隊がこれほど長期にわたって、法的な位置づけが曖昧なまま規模を拡大してきた背景には、こうした警察官僚の政治力があったというのが本書の見立てだ。60年代まで「海原天皇」ともいわれた海原治や、彼の同期の後藤田正晴などの旧内務官僚が、自衛隊の性格を決めたのだ。
この結果、日本は十分な軍事力をもたない代わりに米軍に基地を提供する「基地と防衛の交換」という非対称な日米同盟が今も続いている。これは日本にとっては、いつまでも他国の軍隊が駐留する「属国」だという不満が残る一方、アメリカからみると、有事にはアメリカ人が血を流すのに日本は土地を提供しているだけだという不信感になる。
このねじれた同盟関係は、冷戦時代に局地戦のリスクが小さかったときは大した問題ではなかったが、今は中国やロシアが局地的な「力による国際秩序の変更」を志向している。安保法制は、こうした情勢に対応して日米同盟をNATOのような対等な軍事同盟に近づける第一歩だが、それには憲法という明らかな限界がある。
こうした東アジアの地政学的な変化の中で、集団的自衛権についての憲法論争にはまったく意味がない。軍事同盟は多かれ少なかれ集団的自衛権なしには成り立たないので、それが違憲なら憲法を改正するしかない。今の曖昧な状態を続けることは、有事の際に大混乱を招くおそれが強い。