フランスのテロ事件以降、我々は「それぞれの小集団が掲げるそれぞれの絶対的な正義」のぶつかり合いによってどんどん正義についてニヒリスティックになっていくが、それでも人類共通の価値を崩壊させないためには、「個別の正義同士のぶつかり合い自体をどう扱うか」について考える「メタ正義論」のようなものが必要だという話を、前回から続いてしています。(この記事のタイトルは少しずれているように見えますが、最後にはその話になります)
その前段階としてさらに数日前に、この問題について軽い問題提起のブログをあげましたんですが、その中に引用した、現在製作中の本からの挿絵↓には結構な反響がありました。
この「絵」にあらわれているような問題を、いかに「多くの人間の責任」で解決するかが、「それをやらないと理想を丸ごと捨てることになる」時代に来ているわけです。
詳しくは前回の記事を読んで欲しいわけですが、「アラブの春」によって、(英語でよく「Big bad XX」といいますが)そういう「巨悪」っぽい権力者みたいなカンジのヤツが倒される姿に歓声を送っていた世界中の人は(私も勿論含みます)、そうやって地場の責任者の権威をすべてメタクソに叩き潰した結果現地でちゃんと「まとまった行動」のできる集団が宗教過激派ぐらいしかいなくなって、現在の混乱に繋がったことについて「責任」を感じたりしているでしょうか?
私も含めて欧米的に教育をされた知識人というのは、物事を捉える時に「演繹的」すぎて、つまり個々のそこに生きている人のリアリティよりも、その事物の「テーマ性」から判断しすぎるきらいがあるわけです。
結果として、「デモがあって”権力者っぽいヤツ”が引きずり降ろされてればそれは絶対善」みたいなレベルの気分で、かつ「その場(この場合は中東)」のことなんて10分後には全然忘れてるような世界中の人間が火に油を注ぐ結果として、ちゃんとまとまった責任を「その場」に命がけで感じてる人間を果てしなく引きずり下ろしたあげく、「どんなことも結局他人事な人ばっかり」で世界中を埋め尽くしてしまう傾向が、「欧米的知性の癖」として存在します。
で、ここで注意したいことは、本来多くの非欧米諸国の人間の大多数は、「欧米的価値観」を拒否したいと思っているわけではありません。イスラム国の台頭には、現地の普通の住民の多くは「迷惑」してることが多いでしょう。
ただ、この「欧米的知性の癖が持っている欠陥」に無批判すぎる運用が社会に蔓延すると、「その現実的問題をバランスさせるために」、かなり先鋭化したアンチ欧米的理想ムーブメントが巻き起こり、彼らは本来必要なレベル以上に「やりすぎる」ことになってしまいます。
これは、中東やアフリカの正常不安定な国だけの問題ではありません。
東アジアでも、そして欧米そのものの中でも、ボディブローのように効いて来ている問題なのです。
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日本における例を出します。
私の普段の仕事は経営コンサルタントなんですが、クライアントに地方の伝統的な優良企業の跡継ぎ経営者がいます。
彼と仕事をしていると、「奇策を次々と打つことではなくて、その”場”に関わるいろんな人やモノにちゃんと目配りを続けて、”良い状態”を保ち続けること」という王道的な経営のあり方について考えさせられます。
それを私は「神主型経営」と呼んでいるんですが、前代から受け継いだ神社の森を毎日メンテナンスして次の世代に繋ぐような、そういう「責任」をちゃんと取る人生を、本人も早い時期から覚悟し、周囲もそれを盛り立てようとすることによって維持される「場の良識」というものがやはりあるわけです。
そういう「場の良識」が生きていれば、例えば報酬の分配においても「縁の下の力持ち」的な存在までちゃんと行き渡らせることができるし、消費者の要求に媚びすぎてムチャをして後から問題になるようなことはしないようにしようという倫理観も維持できる。
さらに言えば、直感に反するようですが、そういう「神主さんの安定」があれば、「時代の流行り」的なものを取り入れる力もむしろ高まるのです。これは、免疫力が安定してないとちょっとした異物にハクション!と過剰反応してしまうメカニズムを考えるとわかりやすいと思います。
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勿論、次々と生起して世界中を「まだやってないの?遅れてるゥ!」と席巻する「欧米的理想」の要求水準からすると、どんな「神主」だって完璧ではないですから、やろうと思えば簡単に引きずり下ろしてしまうこともできます。
でもその「欧米的理想の最先端」的なナイフであらゆる神主的存在を刺し殺そうとしている人たちは、1年後も「その森」のことを覚えているでしょうか?
おそらく、1年後には1年後の流行りのテーマに乗っかって、また別の「森」の神主を「倒すべき悪」と認識して引きずり下ろしてやろうと頑張っているでしょう。
今回のテロによって「開かれたフィードバック回路」から流れてくる情報について、我々は「その視点」から、20世紀的なドグマティックな正義の展開を考えなおさねばならない時期に来ているわけです。
そして、現地現物のリアルな人間は「欧米的理想」を全拒否にしたいわけではなく、その「運用」において「現実とのフィードバック回路が途絶した無責任さが横行する現象」への「切実な対応」としてのアンチ欧米ムーブメントがあり、それが極限まで高じるとテロになっているのだという理解が必要です。
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最後にさらに余談ですが・・・ここまでの文章に「そうだ!」と思ったあなたはここ以降書いてあることで「印象」を変えないでいて欲しいと思いつつ書くわけですが。
私は以上述べたような世界観によって、「欧米的理屈の外側にあるリアリティ」からのフィードバック情報を、「欧米的理想の中に繰り込む」仕組みを考えない限り、「欧米的理想そのものが廃棄される時代」が来てしまう危機感を持って活動してきました。
現時点での成果物としては、「日本がアメリカに勝つ方法」とか「アメリカの時代の終焉に生まれ変わる日本」などを参照してください。
その立場から言うのですが、私は、極論すると「アベ政権の独善性」よりも「シールズの独善性」の方が嫌いです。嫌いといって悪ければ、やはり現代社会における喫緊の課題として「克服されるべき問題」を抱えていると感じています。
確かに安倍政権の支持者の中には「人権とかいう発想が日本をダメにした」とか堂々と公言する人間がいて、ほんとちょっとどうかと思います。私もね。
しかし、そこで彼らを「人間のクズ」扱いしてあなたの世界から全拒否にしてしまう前に、「彼らがなぜそんなことを言うのか」についての想像力こそが、「メタ正義」の時代には重要になってくるはずです。
そうすると、私には、普段私の仕事で出会う「神主さん」たちが日本の現場でちゃんと根を張っている責任を、「欧米的価値観」がちゃんとバックアップできていないことの現れだと見えてきます。
そういう意味において私には、「欧米的価値観がその”神主さんたち”をバックアップできない状況下では、アベ政権は決して否定されるべきではない」という信念がある。そのプロセスにおいてあまりポリティカリー・コレクトでない要素が含まれていても、それは「ポリティカリー・コレクトさという概念が隠し持っている欧米中心的な抑圧の反映」にすぎないと感じるからです。
勿論、安倍政権がやりすぎないためのバランス要素としてシールズが必要だったという事情はわかります。しかし、 彼らのやり過ぎを是正するためには、彼らを「非人間的な巨悪扱い」するのではなくて、「彼らがどうしても守りたいと考えているもの」を、「欧米的理想の延長」の中に入れ込める算段を考えることに集中するべきなのです。
ずっと私はこの話を言い続けているわけですが、ぜひ「対岸のあなた」にもこの話について耳を傾けていただけたらと思っています。安倍政権の支持率はやはり回復傾向らしいですし、「ワンイシューで相手を巨悪扱いする」論法を超えることなしに、「次の政権交代」は難しい事情があるでしょうしね。
それが可能な時代が、このテロによって幕開けとなったならば、突然の悲劇による行き場のない悲しみにも、「意義」が生まれて希望に変わることでしょう。
へっ、この人類サマは、転んでもタダでは起きないぜ!という結果になることを願っています。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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