まだ東芝のことを考えています。大学教員は年中無休なので、年末も仕事をしながらも、東芝のことが頭のどこかに残っていて忘れられない。
というのも、この問題の本当の原因が、会計問題が取り沙汰されているこの数年に突然起こった出来事だとは思えないのです。
リーマンショック、震災による原発事故とその後の原発販売の不振、といった予測不能な大きな出来事があったにしろ、あれだけの不適切会計をし続けるにはそれなりの動機、どうしても会計操作をせざるをえない事情があったのではないか。
自分がいた10年前、いやそのずっと前から続く、東芝の文化に根ざした問題があるのではないか。
自分にとっては東芝問題を掘り下げることは、自分の生い立ち、DNAを振り返る作業でもあります。
最初の職場である東芝で仕事の仕方を覚え、自分で自覚している以上に、自分という人間は良くも悪くも東芝のDNAを引きずって生きているのだと思います。
東芝を辞めた後、東大、中央大学と転職しました。
これらの転職先でも色々な事が起こっているわけですが、自分がある程度は完成されてから転職しているせいか、割と冷静に見つめるというか、何か問題があっても、東芝ほど自分の本質に刺さるわけではないのです。
さて、前回のブログ記事「エンジニアは新聞報道で会社の危機を知る」に(本記事を書いている時点で)ブックマーク276、シェア423がついていることからも、東芝問題とエンジニアのキャリアへの高い関心が窺えます。
サムライと愚か者 暗闘オリンパス事件(山口義正)、しんがり 山一證券 最後の12人(清武英利)といった本を読んでみると、オリンパス、山一證券、東芝と不正事件を契機に危機に陥る企業にはある共通点があるのではないかと気付かされました。
これらの企業では、ある時、カリスマというか、思い切った勝負に出る経営者が現れ、大きな投資を行います。そしてそれが後に裏目に出ます。
オリンパス、山一證券では経済バブル崩壊・金融危機により、積極投資が裏目に出て、東芝では震災による原発事故とその後の原発販売の不振で、ウェスチングハウスやランディス・ギアなど電力事業への重点投資が裏目に出ました。
そもそもの投資自体に問題があったとしても、その後に「飛ばし」や不適切会計でごまかし続けたことが、傷口を広めることになりました。
つまり、積極投資したカリスマと、その後に問題の隠蔽を続けた、年功序列で来たイエスマン経営者という組み合わせが、取り返しがつかないほど損失を拡大させてしまったように感じます。
カリスマ(サイコパス)+年功序列の最悪の組み合わせが招いた悲劇のように感じます。
ただ、転職がさほど一般的ではない日本社会では、なかなかお世話になった先輩を否定することが難しい。
私が同じ立場だったとしても、前任者を真っ向から否定できたのか、自信がありません。
オリンパス社長の立場から不正の告発を行ったマイケル・ウッドフォードさんのような「空気を読まない」方が却って難しいのではないでしょうか。今までの積み上げてきたことを捨てる覚悟が必要なわけですから。
つまり、年功序列の日本企業は、一度問題が起こると、問題を解決するどころか、方向転換できずに問題を拡大させてしまう危うさを持っているのではないか。
東芝の会計問題に関しては、会計をごまかした最近数年のことばかりが取り沙汰されています。
しかし、会計問題の前(西室さん、岡村さん、西田さんの社長時代あたりでしょうか?)になぜ原発で大勝負に出たかを掘り下げないと、問題の本質がわからないのではないか。
私が在籍した2000年代前半を振り返ると、「原子力ルネッサンス」と社会も原発を後押ししていた時代でした。
CO2を排出しない原発はクリーンエネルギーで地球環境に優しく、経済的にも合理的とされていました。実際に原発を増設する計画もあったようです。
(そういえば、CO2の排出権取引ってどこに行ったのでしょうか?)
2000年代前半の東芝では、フラッシュメモリが台頭してきました。
しかし、あの当時、半導体に過度に頼って良いのか、という空気が社内だけでなく社会全体にあったと思います。
DRAM事業で日本の電機メーカーが三星電子やマイクロン・テクノロジーなどに負けたように、フラッシュメモリもやがては負けてしまうのではないか。半導体以外で新規事業が必要ではないか、という「空気」があったように思います。
また、電力事業やインフラ事業は安定しており、リスクが低いのが常識とされました。
現実は、それが全然リスクが低くなかったわけです。
日本企業は摺り合せ技術が得意だからインフラ・電力の方が勝ち目がある、だから原発に投資、が正論とされました。
今から振り返ると、常識が10年でひっくり返りました。
10年後、現実は正反対だったわけですが、フラッシュメモリをやっていた私も未来を予測できたわけではありません。
東芝の原発重視の経営戦略にしても、当時の識者、経営コンサルタントの方などは褒めていたと記憶しています。
それが同じ方が今では「東芝は選択と集中が行き過ぎた」と手のひら返している。
何を言ってるんだ、まったく。言うだけの人は無責任ですね。
このような半導体や原発の栄枯盛衰を振り返って、学んだことは、「**ルネッサンス」「**システム」のように、みんなが煽り立て、もやもやっとしていて、何となく良しとされたものは、事業としてはダメだったということ。
今のIoTやAIも同じような危うさを感じます。
逆に、地に足つけて、現場から叩き上げて作った技術やビジネスだけが生き残りました。
「IoT」と言うと物凄く大きなビジネスが広がっているようなイメージがあり、「組み込み」と言うと面倒くさい小さいビジネスが沢山あるようなイメージです。
IT技術を駆使して組み込みを実装するのがIoTでしょうから、実はこれら二つの言葉は今後は同じものを指すのではないでしょうか。
そして前者のような単一の巨大市場というイメージは幻想で、後者のように小さく分散した難しい市場を地道にやった者が勝つのではないか。
後から理屈はいくらでもつけられますが、未来の予測などできないのです。
個人としては、予測できない時代、変化することを前提にいかにサバイブするか、ですね。
そのためには、今起こっていること、過去に起こったことから学び、そこから類推することで、少しでも将来を予測するしかないのでしょう。
賢者は歴史から学ぶ、というと陳腐ですが、大切なことは時代を経ても分野によらず変わらないのかもしれません。
編集部より:この投稿は、竹内健・中央大理工学部教授の研究室ブログ「竹内研究室の日記」2015年12月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「竹内研究室の日記」をご覧ください。