アドルフ・アイヒマンの恩赦請願 --- 長谷川 良

「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」 (International Holocaust Remembrance Day)の1月27日、イスラエルは元ナチス幹部アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)の恩赦請願書を公表した。アイヒマンは1961年人道の罪、戦争犯罪の罪で死刑の判決を受けた。書簡は死刑日1962年5月31日の2日前にイツハク・ベンツビ大統領(任期1955~63年)宛てに送られたものだ。
 エルサレムのイスラエル大統領府が公表した書簡にはアイヒマンの恩赦請願を「公平な理由が見当たらない」として拒否したベンツビ大統領の返答書簡も同時に発表された。

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▲故サイモン・ヴィーゼンタール氏はアルゼンチン逃亡中のアイヒマン逮捕に貢献(1995年3月、ウィーンのヴィーゼンタール事務所で撮影)

アイヒマン(1906~62年)は恩赦請願の中で、「裁判官は自分の性格への致命的な間違いを犯している」と指摘し、恩赦を求めている。アイヒマンは、「自分はユダヤ人を迫害できる高い立場にはいなかった。同時に、自分の名前でユダヤ人虐殺を命令したこともない。上からの命令に従っただけだ」と反論し、ベンツビ大統領に自分の無罪を主張し、死刑を中止してほしいと願っている。アイヒマンの夫人とその5人の兄弟もアイヒマンのために恩赦を歎願している。
 
アイヒマンは1932年、オーストリアのナチスに入党し、後日、ドイツ親衛隊(SS)に所属した。35年には新設されたユダヤ人担当特別部門に編入されている。終戦後、アルゼンチンに逃走したが、イスラエル情報機関モサドが1960年5月、拘束。1961年4月のアイヒマン裁判で戦争責任を追及された。275時間に及ぶ予備訊問と3500頁を超える文書に基づき61年12月、絞首刑が決定された。

ナチス軍のユダヤ人大虐殺で600万人以上のユダヤ人が犠牲となったが、アイヒマンは公判時に、「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計に過ぎない」と述べたという。逮捕後は、「私は当時、命令に忠実に従い、それを忠実に実行することに精神的な満足感を見出していた」とイスラエル側の尋問に答えている。そして、「私の罪は従順だったことだ」と述懐したという。

大戦終了後、ナチハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタール氏(1908~2005年)は同胞を殺害した元ナチス責任者を世界の隅々まで探し回り、司法の場に引っ張っていった。その執念は想像を絶するものだった。アイヒマンの逮捕も同氏がイスラエル側に提供した情報が大きく貢献した。

当方は1995年、ヴィーゼンタール氏とウィーンの同氏の事務所でインタビューしたことがある。同氏に、「戦争は終わって久しいのに、なぜ今も逃亡したナチス幹部を追い続けるのか」と聞きたかったからだ。同氏は鋭い目をこちらに向けて、「生きている人間は、死んでいった人間の恨み、憎しみを許すとか、忘れるとか言える資格や権利はない」と主張し、「『忘れる』ことは、憎しみや恨みを持って亡くなった人間を冒涜する行為だ」と語った。その時のヴィーゼンタール氏の顔を今も鮮明に覚えている(「『憎しみ』と『忘却』」2007年8月26日参考)。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年1月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。