岩波文庫の「イソップ寓話集」をみると、第42話に、「農夫と息子たち」というのが載っている。死期の迫った農夫は、息子たちに自分の葡萄畑に宝物を隠してあるといって死んだ、息子たちは、畑を隅から隅まで掘り返したが、宝物は見つからなかった、その代わりに、葡萄がよく実ったという話である。寓意は、人間にとって苦労こそが宝物だということだそうだ。
しかし、現代社会における企業の経営哲学として、寓意を考えるならば、自分の葡萄畑を深く耕すことこそ、企業の利益の源泉だということになる。農夫を創業者とすれば、創業の理念とは、宝物は自分の葡萄畑のなかに常に隠れているのであり、それを探し続けることこそ、企業経営の本質だということになるであろう。
では、自分の葡萄畑とは何か、それは、自分の顧客、現に取引のある顧客のことにほかならない。顧客の意味を厳密に考えて、顧客のうちには、未だ顧客ではない見込み顧客は含まれないということである。
営業といえば、新しい顧客を得ることだというのが一般の通念である。確かに、真に新しいものを創造したり、現にあるものでも、真に新しい提供形態を開発したりすれば、周りは、全て新しい見込み顧客である。それを開拓することは、市場の創造であり、企業経営の基本なのであって、経済成長は、まさに、この創造的革新によって、もたらされるものといえる。
しかし、産業には、人間生活の基底を支えるものとして、技術的構成の次元においてこそ小さな絶えざる革新があるものの、基本構造においては、変わりようがないものも少なくない。それは、人間の生活の基本構造が本質的には変わらないからである。例えば、金融は、そのような基礎産業の代表である。
基礎産業であることは、社会的需要が標準化されているということだから、誰がやっても、基本的に同じことになる。同時に、大きな社会的需要があるということだから、それなりの数の供給業者が必要だ。しかも、社会的責務が大きいので、それなりに厳格な規制が不可欠であり、厳格な規制は、商品やサービスの差別性を低下させる。こうして、金融は、本質的な差別性がないなかで、多数の金融機関が競争を繰り広げるという状況になっているのである。
この金融において、新しい顧客を得ようとする努力は、多くの場合、ほぼ同じ商品とサービスによって、他社の顧客を獲得することを意味する。このことは、競争を通じて、顧客は新しいものを得るのではなく、単に価格が下がる利益を享受するだけだということであり、金融機関の立場からみれば、創造的革新を欠いた体力勝負の消耗戦によって、利益率が低下するだけだということである。
このようにして、他人の顧客を開拓することでは、つまり、他人の葡萄畑を荒らすことでは、金融機関の成長はあり得ない。現にあるものを他人から低価格でひっくり返しても、そこには何も新しいものは生まれない。成長とは、価値の創出である以上、何らかの創造的契機を欠くことができないのである。
故に、金融においては、葡萄畑の宝探しの寓意を考え直す必要があるのである。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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