【改訂稿】放射線の妊婦(胎児)への影響 - 安田洋祐

安田 洋祐

【重要】本稿へ寄せられた提案や議論をもとに、本文内容および表現を、より正確かつ誤解を招きにくい、と思われる形に修正させて頂きました。表面的な風説が一人歩きするリスクを十分に考慮せず、本稿のような重大な影響を持ち得る内容の記事を投稿してしまったことをお詫びすると共に、ご意見を下さった皆様に感謝致します。(3/19 22:00)

3月13日のニューヨークタイムズに、「Radiation and Pregnancy」(放射線と妊娠)という記事が掲載されました。(リンク。情報を提供して下さった経済学者の下松真之氏に感謝します)


この記事では、米コロンビア大学のDouglas Almond准教授(研究用ウェブサイトはこちら)らによる学術論文(後述)を引用しながら、
・成人への健康被害が生じないとされている微量の放射線であっても、胎児に影響が生じる危険性がある
・この科学的知見を踏まえて、日本政府が妊婦の放射線被害に対してより強い警鐘を鳴らすべき
と訴えています。

一見すると、胎児への放射線被害が証明されたかのように映る記事ですが、以下で述べるようにAlmondらが示した結果の正当性には疑問の声が寄せられており、その解釈には十分注意する必要があります。本稿では、ニューヨークタイムズ記事の論拠であるAlmondらの研究を紹介するとともに、その問題点や我々が汲み取る事のできる含意についてご紹介したいと思います。

“Chernobyl’s Subclinical Legacy: Prenatal Exposure to Radioactive Fallout and School Outcomes in Sweden”
by Douglas Almond, Lena Edlund, Marten Palme, The Quarterly Journal of Economics, 124 (4): 1729-1772, 2009.
(2009年1月段階でのワーキング・ペーパーはこちら、2007年9月にNBERに掲載されたバージョンはこちらから、それぞれダウンロードできます)

論文要旨は次のとおり:

We use prenatal exposure to Chernobyl fallout in Sweden as a natural experiment inducing variation in cognitive ability. Students born in regions of Sweden with higher fallout performed worse in secondary school, in mathematics in particular. Damage is accentuated within families (i.e., siblings comparison) and among children born to parents with low education. In contrast, we detect no corresponding damage to health outcomes. To the extent that parents responded to the cognitive endowment, we infer that parental investments reinforced the initial Chernobyl damage. From a public health perspective, our findings suggest that cognitive ability is compromised at radiation doses currently considered harmless.

本論文は、チェルノブイリ原発事故が発生した後にスウェーデンで生まれた子供たちのデータを使った実証研究で、以下の発見を報告しています。

・原発事故当時、妊娠8-25週目を迎えていた子供達は、中学校における学術テストの得点が(統計的に)有意に低い
・数学での得点が特に低くなっており、認識能力へ何らかの影響が生じている可能性がある
・スウェーデン国内で放射線量が多かった地域で生まれた子供たちの得点が、全国平均よりも約4%ほど低くなっている
・しかし、学術成績以外の健康への悪影響は観察されなかった

スウェーデンは、チェルノブイリから約500マイル(800km)離れています。当時のデータに基づく放射線拡散のシミュレーション(リンク)を見ると、確かにこの地も放射線に襲われていることが確認できますが、汚染量は比較的軽微にとどまっています【註】。
実際に、当時のスウェーデン政府も放射線が人体に影響を与えるものではないとアナウンスしていました。しかし、Almondらの研究は、このような軽度の放射線被曝であっても、妊婦(胎児)に影響が生じる危険性があることを示唆しています。

本論文の問題点と解釈上の注意

本論文は、Quarterly Journal of Economicsという経済学のジャーナルに掲載されています。Natureや Scienceなどの科学雑誌、あるいはLancetやNew England Journal of Medicineといった医学雑誌に掲載されたものではないため、生物学や疫学などのいわゆる医科学的なチェックを経て発表されたものではありません。したがって、放射線による胎児への影響を直接的に示すものではない可能性が存在します。たとえば、論文では「学術テストの点数が、統計的に有意に低い」ことを論拠にして、放射線が胎児の認識能力に影響を及ぼす危険性があるとしていますが、胎児の脳の発達に関しては母体の精神的なストレスなどさまざまな要因が影響することが(別の研究によって)報告されています。また、学術テストという指標はさらに複合的な要因が関係しているため(そういった要因は論文内である程度考慮されているとは言え)、原因を放射線のみに限定してしまうことには問題があると考えられます。

しかしながら、健康被害が生じないとされる微量の放射線が、10年以上経過した後の学力に与える影響といった長期の効果を、完全に医学的な見地から解明することは非常に難しい問題ではないかと思います。今回のように、データを虚心坦懐に調べる事で得られた学術成果が存在するのであれば、それを実証手法自体に限界があることを明記した上でできるだけ誤解の生じない形で広め、少しでも予防に役立てることは、十分に意義のあることではないかと個人的には考えます(改訂前の記事では、実証手法の限界に関する周知が不徹底であったと深く反省しております)。少なくとも、本論文で指摘された結果を踏まえて
・成人に健康被害が及ばない量の放射線であっても、胎児には影響が生じる危険性が無いとは言えない
・したがって、妊婦(特に妊娠8-25週)は(妊娠していない)成人以上に、放射線を浴びないように注意する必要がある
ことは、多くの方々が把握しておくべき点ではないかと思います。

最後に

本稿、あるいは本稿でご紹介させて頂いたAlmondらの研究をめぐるTwitter上での議論を現在Togetterにてまとめております。ぜひコチラを合わせてご覧頂ければ幸いです。

【註】スウェーデン国内で記録された最も高い放射線量は約1000ナノシーベルト/時(=1マイクロシーベルト/時)で、これはチェルノブイリから約1000マイル(1600km)離れたNjurundaという町で検出されました。以下に、Njurundaの放射線量のグラフを転載させて頂きます。

Njurunda

(安田洋祐 政策研究大学院大学助教授)

コメント

  1. greetree より:

     何らかの影響があるとしても、それを放射線の影響と断定する根拠はありません。
     一般的に、強いストレスにさらされると、体調が崩れることは知られています。妊婦も同様で、強いストレスのもとで、神経や体調などに影響して、妊娠状態に不都合が来ることも考えられます。
     「妊娠中のストレス 影響」
     という用語で検索してください。脳の形成に影響があるらしい、という研究成果が見出せます。
     放射線か、ストレスか、そのどちらが原因であるかは、統計データだけからはわかりません。
     なのに、「放射線のせいだ」と断定することは、妊婦にストレスを与え、いっそう状況を悪化させます。ものすごい悪影響がある恐れもあります。
     本項は、統計的な処理の誤りのせいで、ほとんどトンデモです。このようなデマが拡散されないことを切望します。妊婦はただでさえストレスにさらされているのですから。
     
     なお、警告が成されてもなされなくても、妊婦にできることは何もありません。堕胎することは、不可能だし、そもそも論外です。また、東北からの脱出も、現状ではほぼ不可能です。「妊婦を最優先で脱出させる」ということは可能かもしれませんが、そもそも原発周辺以外では放射線はあまりありません。
     しいて言うなら、原発周辺では妊婦を優先的に脱出させる、ということでしょうか。その場合でも、「危険だから」というよりは、「一応念のため」という程度に安心させるべきです。危険性をやたらと唱えることは、百害があります。

  2. hogeihantai より:

    上記のグラフをみると放射線の強さは最高でも毎時1マイクロシベルトです。世界にはこれより高い自然放射線の環境にある場所は多数あり健康被害は報告されてません。イランには10マイクロシーベルトという場所さえある。日本にも0、4の場所があります。>1の人が正しいと思いますが?

  3. susumu_2009 より:

    放射線に対して妊婦や生殖器が影響を受けやすいというのは、多くの放射線取り扱い者には周知のことでしょうが、それをやたらに喧伝してはいません。むやみに危機を煽ることの悪影響がわかっているからでしょう。

    実際のところ、現場の作業者の受ける被爆レベルなら妊婦優先という配慮がいるかもしれませんが、現状のレベルで住民に危機を煽ることは百害あって一利なしです。

  4. ikuside5 より:

    このレベルの放射線の被爆は70年代にもあったことらしいので、安田先生の紹介される記事の内容が本当であるならば、70年代生まれの子供(もう中年になってますが)は、それ以前もしくは80年代以降の世代と比べて、認知能力が低い可能性がある、ということにならないですかね?

    私などは、本当か?とつい思ってしまいますが。
    http://getnews.jp/archives/105218

  5. heridesbeemer より:

    妊婦とか、細胞分裂が盛んな10才以下の人は、確かに危険度は、高いです。

     さて、放射能には、直接照射によるものと、空中をただよってくる分裂生成物のパーティクル(花粉粒子のように)によるものがあります。

     現在、政府からは、線量の発表だけがされていますが、それは、短期的な影響しかはかれない。だから、官房長官も、”直ちに、人体に影響のでる値ではない”と言っている。

     問題は、長期的な影響の方で、空気中、水道水、土壌表面などから、分裂生成物のパーティクルが、いやがおうでも、原発近辺ではある。とうことです。なにしろ、燃料棒が損傷して、水をかけて、圧力を抜くために蒸気放出してるんだから。降下量は風向きによって大幅に変わる。
     だから、空気中、水道水中のCs-137,Sr-90の濃度が、ICRPが定めている基準以下である、ということを数値とともに、官房長官は発表せずに、いまのような20km退避、30km屋内退避を連呼しつづけても、彼の(すなわち政府の)credibilityは、蒸発してしまうんじゃないかと思いますけどね。

  6. bobbob1978 より:

    800km離れたスウェーデンでチェルノブイリの影響があるのなら、もっとチェルノブイリに近い場所ではそれ以上の影響があるはずです。事故当時にウクライナに住んでいた妊婦に関するデータなどはないのでしょうか?それらと比較しないと「放射線の影響」とは言えないような気がします。「経済学のトップジャーナルの一つである」とのことなので統計データ自体には問題ないのかも知れませんが、「有意な差」の原因をチェルノブイリに求めるのには疑問があります。

  7. cuique4 より:

    しかし,悪い影響が生じる可能性を公開することに対して過剰に拒否反応を起こす人がこれほど多いのには本当にあきれるな.最先端の科学技術をどれほど駆使しようとも,想定外の事態が起こることは今回の地震でも実証されているにもかかわらず・・・
    さて,安田氏は上記記事で一貫して,「という危険性が存在する」として,Douglas Almond准教授の論文の真偽・評価,果ては福島原子力発電所周辺における放射性物質の拡散量・範囲という事実の認識レベルにおける判断に至るまで,何ら断定的な判断を上記記事では行っていない(事実でさえも本当のことが明らかになるのも,もっとずっと先のことであろう).
    しかし,いかなる情報であれその可能性があるものは,専門家・研究者の良心として押並べて公開されるべきで,それら情報をいかに取捨選択し,評価を下し,自らの次ぎの行動の判断材料にするかは,まさに「個人の自由」の問題だ.例え原発の隣に住んでいようが,自分が安全だと決断したのならば住めばよいし,死ぬと確信していても住み慣れた故郷を離れることはできないと決断することも自由だ.その真逆の選択も然りだ.私は止めない.
    しかし,ある選択や解があたかも唯一のものであるかのごとく主張する者には断固としてこれを拒否する.美しい神話や確実に約束された未来を夢見たい者にとっては,私のような発言はさぞかし耳障りであろう.しかし,人々が単一の選択肢・価値観に塗り染められた時,隷従への道ははじまり,その危険性が最も高まるのは,今回のような国難時であることを忘れてはいけない.

    http://www.youtube.com/watch?v=XyP1fdE1qxM

  8. yyasuda より:

    本稿にて内容をご紹介した論文の執筆者の一人と同僚であり、実証研究に精通している経済学者の下松真之氏(ストックホルム大学IIES(国際経済研究所)助教授)から寄せられたコメントを以下にアップさせて頂きました。実証手法に関するやや複雑な議論も展開されていますが、非常に示唆に内容となっておりますので、ぜひご参照頂ければ幸いです。
    http://blog.livedoor.jp/yagena/archives/50808385.html

  9. rityabou5 より:

    たまたまその時期にスウェーデンでドラえもんの歌が流行っていたとする。そしたら「ドラえもんの歌」は胎児に悪い事になるのか?

    おかしいよね。

    この手のデータは、最低でも複数の条件(例えば全く別の場所のデータとか)のデータを持ってこないと話にならない。でないと「どらえもんの歌は胎児に悪い」なんて結論が容易に出てしまう。

  10. yyasuda より:

    rityabou5さん

    >最低でも複数の条件(例えば全く別の場所のデータとか)のデータを持ってこないと話にならない。

    当該論文では、まさに複数の条件を持つデータを使っており、さらに地域ごと/生年月ごとのデータ間の差を取る事によって、「ドラえもんの歌」などの影響が排除されるように調整されています。さすがにそこまでお粗末な内容の論文が、データ分析の手法についてうるさい経済学の主要ジャーナルに掲載されることはないです。より詳しい解説をこちらにアップさせて頂きましたのでご参考頂ければ幸いです。
    http://blog.livedoor.jp/yagena/archives/50808385.html

  11. minourat より:

    そういえば、 水俣病の原因がチッソの廃液中の水銀であることを発表した熊本大学の先生は、 東大のエライ先生たちにずいぶんたたかれました。 同様のことが、 イタイイタイ病、 サリドマイド、 スモン病と起きました。

    ひとつ確かな事があります。 私は小学生のころビキニの水爆実験により放射能汚染された雨にぬれました。 そこで、 頭が悪くなってしまいました。 つくづく残念です。

  12. rityabou5 より:

    > 10. yyasudaさん、リプライありがとうございます。

    私の文がかなり舌足らずでした。例えば『劣化ウラン弾に健康リスクはあるか』という研究に関しては、『あり』という論文も『なし』という論文もあるのです。そういう意味で、この手の話は論文1個見ても結論は出せないなあと感じています。

    この手の話で『有意』や『検定』という類の用語が全く書かれていないレベルの文章に対しては色眼鏡で見てしまっているというのもあるのかもしれません。

  13. hogeihantai より:

    >11minouratさん

    今度の東電(東大閥)の失策で東大の権威がまた落ちましたね。東北大学の勝ちです。(私は東大でも東北大でもない)

    今日(3月20日)の日経に東北電力女川と東電福島の津波への対応の差を詳述してます。

    福島第一の想定津波高さは5.7M
    敷地の高さは10M

    女川の想定津波高さは9.1M
    敷地の高さは15M

    技術評論家の桜井淳氏の話として「福島第一は太平洋に面しており、津波の直撃を受けやすかった。入り江の中にある女川との地形の差が大きかった」 引用終わり

    つまり福島は女川より想定津波の高さを高くすべきであった。
    敷地は女川の15Mより高くすべきであった。あわれ東大。

  14. minourat より:

    > hogeihantai さん

    女川と聞くとなつかしい。 

    実は、 女川1号の計算機によるタービンの自動起動のシミュレータを書いて制御アルゴリズムを設計しました。 そのアルゴリズムを用いて東電の袖ヶ浦火力発電所用のタービンの自動起動プログラムを書きました。 そのプログラムは今まで100以上の発電所で使われているとのことですから、 女川でも使われているかもしれません。

    なお、 袖ヶ浦での試運転中の際はGEに来ておりましたので、 私の書いたプログラムが実機で動くかどうか心配でしが、 2箇所ほどの修正でよっかたと聞いてほっとしました。 ふつうは、バグがぼろぼろでます。