産経新聞の連載「李登輝秘録」第3部が18日に始まった。「亡命運動家と日本で密会」と副題が付いている。その亡命運動家とは「台湾で中国国民党政権の“白色テロ”と呼ばれる政治弾圧から逃れて日本に政治亡命していた言語学者の王育徳(1924年-85年)」だ。
白色テロ、即ち二・二八事件の導入に王育徳が出て来るので、その辺りの話は「秘録」に譲り、本稿では育徳の「『昭和』を生きた台湾青年」(草思社)に登場する旧制台北高等学校の同級だった作家の邱永漢(1924年-2012年)、そして二人に関連する「香港」の話を書く。
台湾と香港については6月19日のロイターが「台湾は反中国の『希望の光』、香港からの移住者急増」と報じている。今も昔も香港と台湾は深い関係にあるということだろう。この記事についても後で触れようと思う。
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のちに総統となる李登輝と王育徳、邱永漢は1940年に日本統治下の台湾の旧制台北高校に入学した。李は1923年1月生まれで、育徳と永漢は1924年生まれだから李が少し年上。育徳と永漢が写っている文科甲類のクラス写真が前著に載っている。が、クラスが違うのか李の姿はない。
王育徳の実家は台南の裕福な商家で、父には妻が3人いた。同じ第二夫人の腹の兄が「秘録」にある育霖、白色テロの犠牲者だ。育徳自身も国民党の独裁政治を批判したために睨まれ、1949年7月に香港へ脱出し、そこから日本に密航した。
育徳は大学教師をしながら、10年後の1960年に「台湾青年社」を創設して台湾独立運動を始めた。他にも台湾語研究や台湾人元日本兵の補償問題などに力を注ぎ、故郷へ一度も戻らぬまま1985年に東京で生涯を終えた。
永漢も育徳と同じ台南生まれ。自著の「1997年香港の憂鬱」(小学館)によれば、「父は子供の頃に母親に連れられて台湾に渡った移民」とのことなので、明末に入台した本島人だ。永漢は日本人の母との間の非嫡出子らしい。
育徳によれば、台北高校文甲の同期には異例に多い7人の本島人がいた。が、育徳と永漢以外の5人は「医学は何時の時代も元本確実な投資」と医者になった。育徳と永漢は「良き親友で・・学校の様子が判らない」育徳のために永漢は「いろいろ世話を焼いた」。
永漢の下宿は「女学生の部屋のようにきれいで整頓してあり」、育徳が「高等学校に入って読んだ本は尋常科時代にとっくに読んでいたらしく、話題にのせれば必ず一家言吐いた。それでいて本棚には…馴染みのない本ばかり。刺激されて頑張るのだが、どうしても敵わなかった」。
永漢との関係を彷彿させる。が、永漢の小説「密入国者の手記」と「検察官王雨新」のモデルと「濁水渓」の判事が、それぞれ育徳と育霖夫婦と育霖であることを、「無断でモデルにするとはひどい…彼がそんな風に私の家を見ていたのかと思うと余りいい気持ちはしない」と書いている。
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そこで香港行の話になる。永漢は著書に香港に足を踏み入れた1948年夏のことをこう書いている。
前年に二・二八事件が起こり、台湾の高度自治を要求した本省人たちが蒋介石の軍隊の機銃掃射を浴びて1万人からの犠牲者を出した。….台大教授や知事をしていた私の東大の先輩は3人も連行されたまま二度と帰って来なかった。台湾の天安門事件だと思えば判り易いだろう。
私は無事だったけれども、余りの仕打ちに我慢が出来なくなって「このままじゃダメだ。幸いまだ講和条約は結ばれていないし、台湾の国際的地位は未定だから、台湾を大陸から引き離して考える必要があるのではないか」と思うようになった。
講和条約とはサンフランシスコ講和条約だ。講和条約でも、日本は台湾を「放棄した」だけなので現在もその法的地位は未定だ。台湾独立派の理論的背景もここにあるのだが、講和条約締結の前から永漢はそのように考えていたことになる。
そしてあることから永漢は台湾特務に睨まれるのだが、その前に永漢と育徳の香港脱出に関係する廖文毅(1910年-1986年)に触れておく。文毅は日本統治下の台湾に生まれ、その後、大陸の浙江大学で教授を務めたことから、台湾に戻って台湾総督府に目を付けられた。
開戦後、総督府の監視が厳しくなり中国へ渡るも、終戦で台湾に戻り総統府で働く。が、国民党の腐敗を批判、二二八事件が起こるに至り、香港に渡って台湾再解放連盟を設立した。1950年に日本に移り台湾独立党を設立し、1965年に転向して台湾に戻るが、死ぬまで特務の監視下に置かれた。
さて、銀行勤めをしていた永漢は自分と考えを同じくする、中央大1年で外交官試験に受かったのに朝日新聞の香港特派員になり、戦後、台湾民報の記者に転じていた荘要伝と出会う。永漢は荘の紹介で文毅を知り、一週間ほど香港に行って国連への請願書を書き、文毅が英文に翻訳して国連に郵送した。
何食わぬ顔で台湾に戻っていたところ、「台湾人が独立運動」との記事が新聞に出た。しかも文毅が「台湾の銀行員が来て書いた」と喋ったとのニュースが舞い込む。これをきっかけに永漢は香港に逃げ込み、日本に移るまでの6年間、文毅の下で過ごす。永漢はその時のことをこう書いている。
阿片戦争後の南京条約で中国人が香港に出入りするのは自由だった。…金もなかったし、言葉も通じなかったし、東大出という学歴も何の役にも立たなかった。…若い身空でこれからどうやって生きてゆくか見当もつかなかった。それでも香港にいるお陰で命だけは無事だった。植民地ではあるが、イギリス人にはそうした逃げ場を失った人々に息をつく場所を提供するだけのゆとりがあった。
他方、育徳の香港行については著書のあとがきにこうある。Sとは荘要伝に違いない。
1949年7月4日、香港の啓徳空港に着いた。その足で向かったのは友人邱永漢が寄宿していた廖文毅の住まいだった。…文毅氏の家には彼を慕う青年たちが数名暮らしていた。香港には自由と物が溢れていた。しかし育徳は初めから日本に行くつもりだった。…日本で勉強するつもりだった。
問題は日本に渡る手段。パスポートもビザもなく密航しか手がない。邱の紹介で知り合ったSが面倒見てくれた。待つこと3週間、Sが英国船籍の貨物船に話をつけてくれた。海南島から鉄鉱石を北九州まで運ぶのだが・・多額の報酬と引き換えに密輸品と密輸商人も載せる。育徳はそこに紛れ込んだ。
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最後はロイター。記事は、香港で暮らすユン・シウカンさん(67)が「中国本土への犯罪容疑者引き渡しを可能にする逃亡犯条例改正案」を契機に中国統治下にある香港を捨て、「民主主義を誇りとする台湾で新たな生活を始めることにした」と報じる。
記事はまた、香港で16日に起きた抗議デモの参加者には台湾の旗を振り「台湾には自由がある。民主的な選挙が行われ、憲法が民主主義を守っているからだ」と叫ぶ者がいたとし、「一国二制度」を侵害しているとして、この数年で台湾に移住した数千人の香港住人の列にユンさんも加わることになる、と書く。
台湾に脱出する香港人とマカオ人の数が、1993年から2000年までは毎年1,000人以上で、特に94~97年の4年間は1,500人を超えた。その後15年間は500人前後だったが2016年以降は1,300~1,400人規模に増加しているとも書いてある。
一部の若者は香港を脱出したいあまり、36歳以下の台湾男性に義務付けられている兵役に参加してまで居住権を得ようとし、また台湾の居住権を得るのに必要な150万香港ドルの費用を掛けても台湾に向かうそうだ。
まるで王育徳や邱永漢の時代と真逆だ。この台湾の議会を始め、欧州や米国の議会も超党派で香港デモの支持を表明している。翻って、かつて育徳や永漢が終の地に選んだ日本はどうか、年金や参院選も大事だ。が、各国要人が直にやって来るこの時に、国内問題だけの党首討論とは情けなかろう。