拳銃強奪事件:犯罪者の親の責任について --- 井上 孝之

寄稿

中村仁さんの「拳銃強奪男の親の責任を考える」を読んで考えさせられました。私にも二人の息子がいます。

飯森裕次郎容疑者(33)の父親は19日、留任予定だった関西テレビの常務取締役を退任した。画像は関西テレビの本社社屋(Wikipediaより:編集部)

私が子供を育てた結論を言えば、「子は親の望んだ通りには育たない」ということになります。特に長男については、ものの考え方が私と対極的な人間になってしまいました。もし、子供が親の望んだ通りに育つのであれば、すべての子供が人格が優れたうえに、高学歴者、医者、スポーツか芸術で秀でた人のどれかになっているはずです。

そして、何より私自身もまた私の親の望んだ通りの人間にはなったかというとそうではありません。このようなことは世の中の多くの人が経験していることだと思います。

子供が親の望んだとおりに育った、あるいは、自分自身が親の望んだとおりの人間になったという人は世の中にどのくらいいるのでしょうか?

多くの人がこのような経験をしているのだから、子供が犯罪者になった場合の親の責任については、「親は子育てを通して、子供の人格形成に最も影響を及ぼすポジションにいたこと自体は事実なのだから、もし、子供が犯罪を犯せば、何の責任もないということもないが、また一方で、子供は親の望んだとおりには育たないことも事実なので、成人した子供が犯罪を犯した場合に、多少の批判は受けることがあるとしても責任ある現在の仕事を辞めるほどの責任を負う必要もない」というあたりが妥当な線のようにも思われますが、いかがでしょうか?

ただし、世論形成の中心となるマスコミは、「著名人や社会的地位の高い人の問題を見つけて、叩けば視聴率(売上げ)が伸びる」という構図のなかにいるので、人を叩く口実が減ることには消極的で、このような考えは受け入れないように思われます。

また、ネットも匿名アカウントで他人を批判することに快楽を感じる人の集合体という側面があるので(スマイリーキクチさんの例もある)、「人を叩かないようにする」という方向に意見が集約することも期待薄です。

今回の事件の父親は、自分がマスコミという「叩く側」にいて、その人間が「叩かれる側」に落ちるとフルボッコになることが分かっていたので、さっさとその地位から去ったようにも思われます。

犯罪者の親の責任について、あるべきところに意見を集約させる解決策として思いつくのは、多くの人が意見を発信してもらって、「意見を言いたい極端な考えの持ち主の意見」を薄めて、常識的なところに意見を集約させていくということを積み重ねていけば、「あるべき責任の取り方」の考え方が収斂していくのではないかと期待しています。

私の考える親の責任の取り方

私としては、「仕事は辞めなくていいから、語ってほしい」。どのように子供と接してきたのか、何か異変を感じる兆候はなかったのか、異変を感じたときどのように対応して誰に相談したのか、等々。一つ一つの事例は個別事情でも、集約していくと何か傾向が見えてくるかもしれないし、これから子育てをする人のヒントになるかもしれません。

また、今回の犯人が「心を患っていた」ということであれば、社会からのサポートという観点で何ができるのかの議論のきっかけになることも期待できると考えています。

井上 孝之
「子供の遺伝子の半分は自分と同じなのだから、子供はある程度は自分に似る」という思い込みが完全に間違いであったことにようやく気が付いた技術系サラリーマン。個人ブログ