一高東大弁論部に入部した当初の私には、瀧本さんのディベート重視とは逆に、どうしても腑に落ちないことがありました。
それは、瀧本さんは、弁論部に所属しているにも関わらず、また、合宿等の各種集まりに頻繁に顔を出してくださるにも関わらず、我々後輩たちに「弁論」の話をほとんどしないということです。
実は、一高東大弁論部には、弁論をしない弁論部員というのが意外とたくさんいるのですが、当時の私には、瀧本さんほどの存在感のある方が、弁論部で弁論の話をしないというのが不思議でした。途中から得た自分なりの仮説は、瀧本さんは、弁論があまり好きでないというか、もしかしたら、軽蔑に近い感情をもってスル―していたのではないかというものです。
各大学の弁論部・弁論部員は、大学等が主宰する弁論大会に出て互いに競い合うのが元々の活動の中核です。大会ごとに採点基準は異なるものの、論旨以外の部分、具体的には審査員や聴衆の感情を揺さぶるレトリックの利用法や、声調態度(声の抑揚など)などが成績に大きく影響します。
理性・事実・論理を愛する瀧本さんは、それが好きではなかった。つまりは、瀧本さん的には、ディベートに比べて美しくないと感じたのだろうと思います。
そして私自身は、「現実社会は、ディベートのように無菌化された状態で理性・事実・論理だけで勝負できるわけではないので、実践を考えるとむしろ重要なのは弁論だ」との考えを有していたため、ディベートには、あまり共感を覚えず、途中から弁論に集中するようになりました。そんなこともあって、途中から、瀧本さんとは意識的・無意識的に距離を置いていたような気がします。
ただ、瀧本さんは、弁論大会などにはむしろ良く顔を出してくださり、大会後にレセプションというのがあるのですが、そこで、各大学の弁士や、弁論部仲間たちと「議論」していた記憶があります。二次会や三次会にも積極的に参加されていました。上記の合宿でも、大体、部内の弁論大会がセットであるわけですが、事後の飲み会などで、弁論のテーマなどについて、トコトン議論にお付き合い頂きました。
上記を書きながら思い出した瀧本さんの凄さは、その知的体力・持久力でした。普通、合宿などでも、夜も更け、朝日が見えて…という中で、1人、2人、3人…と脱落して眠りにつくわけですが、瀧本さんは、一番最後まで議論されているのが常でした。とても体力派には見えない外見なので、その凄さが逆に際立ちます。眠くならないのだろうか、と思うぐらいに知的体力はずば抜けていました。地頭×思考体力の両変数のレベルが凄かったことは確かです。
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そんなある日、瀧本さんが、民法の内田貴先生の助手になるという話を聞き、驚愕したことを思い出します。優秀な先輩だとは思っていましたが、東大法学部で助手になるというのは、桁違いな優秀さが必要です。
おそらく、普通の大学にはなかなかない制度だと思いますが、大学院に行くことなく、いきなり教授の助手になって、東大の息のかかった有名大学で講師や准教授(当時は助教授)になるという、ある意味で将来が約束された道です。言葉を選ばずに言えば、あれだけ暇そうに、後輩たちとの議論に付き合ってくださる先輩が、いつ勉強していたのかと、驚きました。
そして、詳述はしませんが、内田先生の助手、というところが瀧本先輩らしい、とも思いました。
(内田先生のテキストは、当時はまだ出版されていませんでしたが、ゲラ版が学生間に出回っており、その分かりやすさ、内容の革新性に度肝を抜かれた覚えがあります。その後、東大教授を辞して法務省に入り、民法改正に取り組まれたことで有名です。)
ここからの瀧本さんの歩みの話、具体的には、民法学者の道を捨ててマッキンゼーに行かれたこと、日本交通等の改革で手腕を発揮されたこと、弁論部の後輩でもある上田君のオトバンク社等を物心両面で支援しエンジェル投資家として名を挙げたこと、弁論界のお仲間の上念先輩とマッキンゼーの同僚だった勝間和代さんをつなげて起業され、やがて決別されたこと、全国的な規模でのディベートの普及啓蒙に努められていたこと、『僕は君たちに武器を配りたい』等のベストセラーを連発し著述家として大成されたこと、瀧本ゼミなど東大や京大で後進の指導で活躍されたこと、などは、それぞれに、私より詳しい方が色々と書かれているので、特に私がここで何かを述べる必要はないかと思います。
(しかし、卒業後の瀧本さんの事績を改めて書き出してみると、本当に、すごいリーダー(始動者)ですね。常に何かを変革しているというか。)
私が社会人になってからは、たまにお会いする際に近況をうかがったり、周囲の方から噂を聞いたりするのがメインでした。上記のとおり、内田先生とは決別したのかと思いきや、偶然なのか意図的なのか、「いやー、内田先生と同じマンションに住んでいて、たまにエレベーターで会うんですよね。」みたいな会話を楽しそうにされていたことを思い出します。
そんな中、一度だけ、むしろ学生時代以上に密に直接にやり取りをさせて頂いたことがありました。
(下に続く)
1973年生まれ。埼玉県出身。東京大学法学部卒業。ハーバード大行政大学院修了(修士)。経済産業省ではエネルギー政策、インフラ輸出政策、経済協力政策、特殊法人・独立行政法人改革などを担当した。 経産省退職後、2010年に青山社中株式会社を設立。政策支援・シンクタンク、コンサルティング業務、教育・リーダー育成を行う。中央大学客員教授、秀明大学客員教授、全国各地の自治体アドバイザー、内閣官房地域活性化伝道師、内閣府クールジャパン地域プロデューサー、総務省地域力創造アドバイザー、ビジネス・ブレークスルー大学大学院客員教授なども務める。「プロジェクトK(新しい霞ヶ関を創る若手の会)」初代代表。青山社中公式サイトはこちら