必要な存在だから憲法に規定されている。
今上天皇の即位を内外に宣言する「即位礼正殿の儀」が開催された。これに対して朝日新聞は社説で
天孫降臨神話に由来する高御座(たかみくら)に陛下が立ち、国民の代表である三権の長を見おろす形をとることや、いわゆる三種の神器のうち剣と璽(じ)(勾玉〈まがたま〉)が脇に置かれることに、以前から「国民主権や政教分離原則にそぐわない」との指摘があった。
と紹介し
いまの時代にふさわしい形を探ってしかるべきではなかったか
と批判する。
しかし、どうだろうか。国民主権は儀式一つで動揺するものなのだろうか。「即位礼正殿の儀」を機に国民主権は瓦解していくのだろうか。そんな「脆い」国民主権はなんの意味があるのだろうか。儀式一つで動揺する国民主権など無理して守らなくて良い。
そんなことより質問通告を遅らせたり免責特権を悪用し人権侵害を行う国会議員について論じたほうが民主主義にとってはるかに有意義である。
この「脆い」国民主権が主張される背景には天皇と国民主権を対立関係に見る憲法解釈がある。
戦後憲法学は「天皇は象徴に過ぎない」とか「象徴以外の役割を持たない」といった具合で天皇を消極的・否定的に解釈して来た。
憲法学者の「本音」は「天皇は本来、憲法に規定すべきではない」であり、彼(女)らはこの「本音」に基づき解釈している。
しかし、法律家に期待されていることは憲法の特定の条項を一方的に解釈することではなく各条項を調和的に解釈することである。だから憲法学者は天皇と国民主権を対立的ではなく調和的に解釈しなくてはならない。
日本国憲法に天皇が規定されているのは必要な存在だからであり、それ以上でもそれ以下でもない。不要なものはそもそも規定しない。
もちろん憲法学者が日本国憲法に天皇が規定された理由を論ずるのは勝手だが、規定されている以上、天皇条項と他の条項を調和的に解釈することが法律家の義務である。
国民主権に続いて政教分離の観点から三種の神器の剣と璽を批判しているが、政教分離とはその歴史的経緯を見れば「政治と宗教の分離」ではなく「政治と教会の分離」である。ローマ・カトリック教会の政治力の排除を目的としたのが政教分離である。
儀式の場から宗教的色彩を完全に取り除くのは不可能であり、それを求めるのは「難癖」以外の何者でもない。
忘れてはならないのが「政治と教会の分離」が実現した欧州で論じられる「神」とはあくまで人間社会を超越した「創造主」である。
しかし日本の「神」とは「野球の神様」「漫画の神様」の用例からわかるように人間との境界が曖昧な存在であり「第一人者」とか「達人」の意味が強い。
実際「野球の神様」「漫画の神様」の「神」の部分を「創造主」と評価する日本人はほとんどいないはずである。戦後憲法学はこうした実情を全く考慮していないし、それに疑問を感じず受け入れているのが朝日新聞である。
「法律家共同体」と呼ばれる極めて狭い世界の住人による日本国憲法のイデオロギー的解釈の結果、天皇と国民の関係は不安定なものになってしまった。
「正統性の淵源」としての天皇
天皇を考えるうえで「正統性」という概念が重要である。そしてこの度の「即位礼正殿の儀」に伴い「正統性」を考える格好の材料があった。それは「恩赦」である。
「恩赦」の評判は実に悪く積極的支持者はほとんどいない。政府も積極的に支持されないという理解があったからこそ恩赦を停止資格の復権などの低次元のものに限ったと思われる。恩赦の評判が悪いのはその内容ではあるまい。内閣が決定するという手続きの面だろう。平均的な国民はおよそ「刑罰」とは裁判所が決定するものと考えている。
だから恩赦への反発とは、裁判所が決定すべき刑罰を内閣が変更を加えるという事実ではないか。
端的に言えば内閣が刑罰を変更することに平均的な国民は「正しさ」を感じていないのである。
似たような話で警察官の職務執行が挙げられる。警察官は治安維持上、必要最小限度の実力行使が認められている。そのことに我々は特に疑問は感じない。むしろ必要だと考えている。
立てこもり事件が起きればネット上では立てこもり犯への発砲を支持する声も少なくない。発砲のように犯人を死亡させかねない行為すら支持するのは言うまでもなくそこに「正しさ」を感じているからである。ありふれた表現だが我々人間は「正しさ」を感じれば暴力の行使も肯定する。そしてこの「正しさ」を根源的に問うと出て来るのが「正統性」である。
日本史を顧みると天皇は「正統性の淵源」となり特定勢力に正統性を付与する、言い換えれば「暴力の行使」を含む「支配」を肯定する役割を果たして来た。
摂政・関白・征夷大将軍も「天皇の任命」を前提とする。藤原家も武家政権も自らの「支配」を肯定する原理を生み出すことが出来なかった。この観点に立てば「なぜ、武家政権は天皇を打倒しなかったのか?」という問いが無意味であることは容易に理解出来るだろう。
そして天皇が特定勢力に正統性を付与することは「大政委任」と呼ばれた。
よく知られているのはこの逆の「大政奉還」である。
「国民統合の象徴」は議論されているか?
では、国民主権になった今、天皇は「正統性の淵源」ではなくなったのだろうか。
「天皇と国民主権は対立関係にある」という戦後憲法学に立てばそう言えるが、前記したとおり戦後憲法学はイデオロギー的であり憲法各条項の調和的解釈を意識的に避けてきた。というよりも戦後憲法学は誰よりも天皇を「正統性の淵源」と見なして来た。
戦後憲法学はある意味、極右よりも天皇を「正統性の淵源」として認めていた。そしてそれを否定するためにイデオロギー的解釈を行ったのである。
今、求められることは戦後憲法学から離れ「天皇と国民主権は調和的関係にある」という常識的法解釈に立ち「天皇は正統性の淵源である」という前提で国民主権との関係が論じることである。
前記した「大政委任」論に立てば「天皇が日本国民に主権(大政)を委任した」となり、この場合、天皇は「潜在的主権者」となる。さすがに「天皇は潜在的主権者である」という主張は世論から支持が得られるとは思えないし、何よりも既に日本国憲法には「天皇と国民主権の調和」を意識した表現がある。それは「国民統合の象徴」である。「潜在的主権者」論よりははるかにマイルドであり天皇と国民の距離も近く「リベラル」な印象すら与える。
「国民統合の象徴」という立派な言葉があるのだからこれを議論しない手はない。在日外国人が急増している現状を考えれば議論の必要性は増すばかりである。
「即位礼正殿の儀」を機に「国民統合の象徴」について議論してみようではないか。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員