産経新聞が連載する「秘録」ものには定評がある。知られたところでは「蒋介石秘録」や「毛沢東秘録」などあり、最近も「李登輝秘録」が19年4月3日の第1部から20年2月2日の第8部まで、部毎に間を挟み10ヵ月連載された。10万字を超えるから薄い新書ならほぼ一冊分だ。
「話の肖像画」という「インタビュー」も「秘録」にない面白さがある。先ごろ連載された陳水扁元台湾総統の編は異例だった。普段は5回、長くても10回程度のところ、何と3月22日から4月25日まで33回も連載されたのだ。文字数49,000字の大部になった。
当初は外信部次長だった聞き手の矢板明夫の肩書も、4月1日の異動で編集局台北支局長になった。産経の海外陣は米国の黒瀬・古森、韓国の名村・黒田、そしてパリの三井女史と充実しているが、台湾も田中靖人・矢板でさらに分厚くなろう。
大陸生まれで中国語が堪能な矢板氏の中国・台湾記事は、独特の泥臭さと的を射た論旨で、読む者の目から鱗を落とさせる。慶応卒業後に松下政経塾で学んだ経歴のせいかも知れぬ。が、野党の福山某や原口某なども同塾出身だから一概にそうともいえない?
陳水扁の「話の肖像画」が面白かった理由は、豊富な知識のある矢板氏が聞き手の「インタビュー」だったところにある。「李登輝秘録」も確かに面白かった。が、こちらは李登輝氏の口から発せられた生の話でなく、結局のところ刊行物の引用の域を出ていない。
つまり、手に入り難い「郝柏村回憶録」(遠見天下文化出版)からの引用などを除けば、李登輝の著作や台湾史を読んだ者には多くが既知の話だ。が、「話の肖像画」は違う。矢板氏の知識に裏付けられた誘引で、おそらく今回初めて陳氏が語ったことも多いと思われる。
以下に興味深く感じた話を、要約に終わらぬよう筆者のコメントを交えつつ紹介したい。
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50年に台南で生まれた陳水扁は70歳。台湾大学法学部在学中に司法試験に合格し、弁護士として民主化運動に加わった。台北市議や市長を経て2000年に民進党から総統選に出馬当選し、終戦以来およそ半世紀にわたった国民党支配に終止符を打った。
2004年に再選し08年の退任後、収賄罪などで逮捕・起訴され服役、現在は病気療養のため釈放されて高雄市のマンション住まい。筆者は高雄在住中に興味本位で見物に行ったことがある。台湾の知人の評価は両極端で、改革を評価する者と収賄を信じる者に分かれる。
陳家は3世紀前に福建省から渡台、彼で9代目だ。学生時代からスピーチが得意で、優勝したコンクールの題目は「指導者に忠誠を誓う」。蒋介石と孫文が並んだ写真に触発された内容だが、民主化後にそれが蒋の権威を高めるための合成写真と知り、一党独裁の恐ろしさを知ったという。
台大商学部1年の時、立法委員候補の民主化活動家黄信介が演説で国民党政権を痛烈に批判したのに衝撃を受け、法律に興味が湧いて法学部に入り直す。3年生で司法試験に挑戦、1,453人中合格10人の難関を1位でパス、10年後に反乱罪で起訴された黄氏の弁護を務めた。
中学で1年下の呉淑珍と結婚した1975年に卒業、医者だった彼女の父親は政治に関わりそうなこの弁護士との結婚に反対した。懸念は10年後に現実となる。雑誌「蓬莱島」の記述での裁判中に出馬した85年11月の台湾県長選で落選するも、当局の激しい選挙妨害の中、予想以上の票を取った。
が、落選後の「謝票」(お礼行脚)のさ中に妻呉氏が三輪トラックに轢かれた。一度轢いてからバックで再び轢いたという。彼女は九死に一生を得て翌年退院したが、以来半身不随で車椅子生活を余儀なくされる。退院直後には彼自身が、先の名誉棄損裁判で実刑を受け収監された。
獄には別の言論弾圧事件で収監され、彼も弁護人だった民主化活動家鄭南榕がおり、台湾の民主化や将来について語り合う。鄭氏は89年に言論弾圧に抗議し焼身自殺し、その死は民主化の起爆剤となった(蔣経国も同年死去)。命日の4月7日は「言論の自由の日」になっている。
入獄中の86年は民主進歩党結党の年でもあった。「党外勢力」と呼ばれた132人の民主派活動家が9月に、台湾神社があった圓山大飯店で結党宣言した。彼らの大半は79年12月の美麗島事件(高雄で起きた、雑誌「美麗島」主催のデモ隊と当局との衝突)の関係者だ。
陳氏は81年9月、美麗島裁判の弁護士仲間の謝長廷(現台北経済代表処駐日代表。党主席、高雄市長、行政院長を歴任)から台北市議選へ出馬を誘われ当選していた。「美麗島」も、彼が名義貸し社長をしていた「蓬莱島」も台湾の別名、外省人の国民党への対抗意識からの命名だ。
彼は84年6月の「蓬莱島」創刊号の「台湾人政治家特集」で、副総統李登輝ら外来政権に協力的な政治家を「国民党の操り人形」と皮肉り発禁となった。先述の敗訴した裁判は、第2号で蒋経国総統秘書の論文を「盗作の疑い」と指摘したことが理由だった。
民進党結党の86年末には、立法院選に車椅子の妻が謝長廷と同じ台北選挙区から立候補、同情票もあり呉氏が当選した。87年2月に出所した彼は妻の秘書になり、彼が妻に作った刑務所内の不正や人権侵害などの質問は、政府をしばしば狼狽させた。
陳氏は94年、謝長廷に籤引きで勝って台北市長に出馬し当選する。が、それはかつて皮肉った李登輝が、政府任命制だった台北市長を選挙制に変えたからこそのこと。これで更に党勢拡大した民進党は、3年前に李氏が片付けた長年の懸案にも協力していた。
それは憲法の「動員・反乱鎮圧時期条項」の改正とそれに必要な「終身議員」の排除だ。同条項は国共内戦継続の根拠となり、民主化を妨げていた。が、改正に必要な意思決定機関「国民大会」の代表約700人の多くは、48年の大会設置時に大陸の選挙区で選出された形をとっていた。
高齢化した「終身議員」は高額報酬を受け取りながら居座り、「万年代表」と呼ばれていた。李氏は粘り強い交渉と新たな住宅提供や多額の退職金支払いを条件に、91年末までに全員を退任させた。彼らを憲法違反としていた民進党もこれを支持した。
台北市長時代の彼は「市役所はサービス業」という意識を徹底し効率を改善した。それまでの政府任命市長は与えられた仕事をそつなくこなし、中央の機嫌だけを取れば良かった。が、選挙で選出となれば目に見えた成果が要る。今般のコロナ騒動での武漢と北京を髣髴する話ではないか。
台北市長の外遊は自由度があった。95年のサンクトペテルブルク訪問では第1副市長のプーチンが案内役だった。駐ソ中国大使館はロシア外務省に「大統領名で陳氏に祝電を出さないよう」申し入れた。96年の豪州ブリスベンでの「アジア太平洋都市サミット」でも中国の妨害を退けて参加を勝ち取り、中国側が会議をボイコットしたという。
市政では懸案の治安改善も行った。一つはゲームセンター。警察が行かない時の実態は地下賭博場、暴力団の資金源になっていた。警察の24時間巡回や水道、電気の停止などの強硬手段で全廃した。また営業許可を得た公娼も「時代に合わない」と廃止した。
市民生活は安全になったが、陳氏を独裁者と見る者や抗議デモも増えた。既得権益を失った勢力が彼を敵視したのだ。陳氏が、これが落選の原因の一つになったと述懐する通り、台北市長の2期目は事前の予想を裏切って落選してしまう。
2年後の2000年、陳氏は台湾総統選を制することになる。が、紙幅が尽きたのでその話は次回に。