判断の規矩を持つ

裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました――昨年ある映画の完成報告イベントで、信じるということにつき、女優の芦田愛菜さんはこう述べられたそうです。

そして彼女は更に、「揺るがない軸を持つことは難しい。だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」と続けられたとのことですが、未だ16歳にして確かに一面ある種の悟りを開いたかのようにも感じられます。

他方同時に「揺るがない自分がいることが信じること」と言われていますが、「揺るがない自分」が何であるかは不明瞭で、突き詰めて行くと何か考えてしまうような難しい話です。「揺るがない自分」を揺るがすのは、一体何なのでしょうか。私に言わせれば先ず大前提として、真に判断の規矩(きく…考えや行動の規準とするもの)を持っていればこそ、自分が揺るがずに在り得るのだと思います。

私などは次の三文字、「信…約束を破ったり信頼を裏切るような事をしない事」「義…正しい事柄を行う事」「仁…相手の立場になって物事を考える事」、を何時もあらゆる判断をする場合の規矩としています。事に当たる時この三文字に照らし合わせ自分自身に厳しく問うて判断すれば、軸がぶれることなく的確に対処できると思っています。

人間、軸を持っていないと常にぶれます。芦田さんがどうやって気付いたのかは分かりませんが、冒頭の引用からは彼女がある種の軸を持っていることは窺い知れます。但し、それが如何なる軸であるのかは判然としません。

併せて人のことに関して言えば、やはり人を判断する時には自分の目で見、自分の耳で確かめることが不可欠です。単に「誰々が言っていたから」といった程度の噂の類で人を評するのではなくて、自分自身で見たもの・聞いたものの内十分確かめられた事柄以外ある意味判断の材料にしない、ということが我々の考え方として一つ求められるように思います。

単なるイメージに対し自分で勝手にその人像を作り上げて後、「その人の見えなかった部分が見えた」のであれば、そもそも自分の人を見る目が未だ出来ていなかっただけではないか、というふうにも思えます。

昨年の米大統領選挙を例に挙げるまでもなく、これだけフェイクニュース溢れる今の世で信に足る情報は、これまた限られているのかもしれません。ですから我々は何事において、先ず判断の規矩を明確にした上で、自分の耳目で今迄よりも可能な限り徹底して様々チェックして行く必要がありましょう。常々そう在らぬ限りは本当の信には繋がり得ず、大きな間違いをおかすことにもなるのです。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年2月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。