東京交響楽団 × スダーン

東響と桂冠指揮者ユベール・スダーンによるフランス・プロ。二日間行われたコンサートの、サントリーホールでの初日を鑑賞した。コンサート・マスターはグレブ・ニキティン氏。マエストロの上品な微笑が懐かしく、指揮棒なしでふわりと始まったフランク 交響詩《プシュケ》の第4曲『プシュケとエロス』から、底無しの魅惑の響きに溺れた。指揮台の上に設置された椅子に座られての指揮だったが、ほとんど立って指揮している印象。大きな手のひらから色彩豊かな音楽が溢れ、オーケストラが香り立つ優しさを伝えてきた。パステルカラーの巨大な神話の壁画が見えてくるようで、遥かな天空の世界に引き込まれる心地がした。

二曲目はショーソン『愛と海の詩』。歌手のアリス・クートが来日できかったため、加納悦子さんがソロ・パートを歌われた。フランス語のたくさんの歌を準備するのは大変なことだったと思う。ドラマティックな情感を含んだ粘り強い歌を聴かせた。ショーソンはワーグナーを尊敬していたが、表面的な形式に憧れていたわけではあるまい。世界観が似ている。『愛と海の詩』を聴いていると、洞窟のような閉所空間にいる気分になる。ソロは男性によって歌われることもあるが(歌詞は男性の視点から書かれている)、現代ではほとんど女性歌手が歌うようになったのも納得がいく。女声は『タンホイザー』の官能の女神ヴェーヌスを連想させ、オーケストラは子宮空間を表しているようだ。

前半の二つの曲で、スダーンの画家のような「筆致」を感じた。優しい色合いで、ふんわりとした手のひらから平和な音を引き出す。作曲家たちが必死に求めていた、永遠の安息のことを考えた。多くの音楽家は繊細で、この世界を粗野で乱雑なものに思っている。ワーグナーは現実とほぼ関係のない楽劇ばかりを書いたが、我々の生きる「リアルな」次元に安息はないと考えたからだろう。

「永遠に女性的なるもの」とは、生まれる前の子宮のような場所ではないか。スダーンのフランス音楽は、しきりに「生まれる前にいた平穏な場所に戻りたい」という渇望感を思わせた。閉じ込められるのではなく、閉じ込められたい。生まれるということは、それ自体凄いショッキングなことで、生まれたくない、永遠に子宮の中にいたいという欲望もあって当然なのではないかと思う。

ココシュカが描いた、アルマ・マーラーとの自画像を思い出した。赤黒い子宮のような岩窟のような場所で、画家はアルマと双子の胎児のように絡み合っている。永遠に女性的なるものを、アルマは幻視させる女だった。マーラーは永遠を与えられ、引っこ抜かれた。マーラーの早逝は、つまりそういうことだった。

ショーソンの音楽を子守歌に、近くの席にいた男性は深くうなだれていた。コンサート中にうなだれているのは、眠っているようですべてを聞いている状態で、見知らぬ男性客は、音のゆりかごの中で胎児のように安らいでいた。私自身は、作曲家が見た夢を一緒に見ているような気分になった。サントリーホールという空間は、このような演奏会では子宮のような場所になる。

想像の世界にいる天才は、見たいものだけを見て、描きたいものだけを描けばいいと思う。作曲家たちも、生きているときはまともな人間だった。名作とはモンスターだ。せせこましい現実と足並みを揃えていては、どんな絵画も彫刻も生まれない。指揮者は、「ある次元」を創り出す人だ。巨匠スダーンの音楽は、夾雑物のない水晶球のような純粋世界で、そこには生まれる前と死んだあとにしか見ることが出来ない秘密が詰まっている。

後半のベルリオーズ『幻想交響曲』も、作曲家の脳内宇宙を感じさせる「現実などない」世界で、ふんだんに使われる半音階の、階段を滑り落ちるような旋律が幻惑的だった。ベルリオーズは現実とイマジネーションを区別しなかった人で、射手座の芸術家特有の超人思想があった。

1楽章から急速な加速をかけるマエストロに、オケは真摯についていく。ノット監督や原田慶太楼さんとの東響も最高だが、スダーンさんとは監督時代に震災も乗り越えている。スダーン東響の音楽がまだ失われていないことが嬉しかった。というより、何かがとても新鮮で、歓喜に溢れ、眩しかった。

夢の小宇宙が、悪魔の裁きのように叩き割られた4楽章と5楽章には度肝を抜かれた。ベルリオーズは自らの幼児性と夢想的イマジネーションを破壊するかのように、闇の色で塗りつぶす。「断頭台の行進」と「魔女の夜宴の夢」は、オペラ『ファウストの劫罰』と繋がっていた。リストやサン=サーンスでもおなじみの不吉な死のモティーフが蝙蝠のように跋扈し、癒しのオーケストラが悪魔のオーケストラに変貌した。ひきつったリズムが管楽器に悪魔のダンスを躍らせ、弦楽器が旋回し、バンダのカリヨンベルが警鐘を鳴らす。魔術が切れたファウストは老い、浦島太郎は白髪のおじいさんになる。ラストは、スダーンのダーク・ファンタジーの威力に打ちのめされ、指揮者の魔性に酔ってただただぼうっとするばかりだった。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年9月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。