ワクチン未接種者への「制裁」論

「制裁」といえば、多くの場合、政治的意味合いを帯びる。最近では、ベラルーシのルカシェンコ大統領が中東から大量の難民を欧州連合(EU)の国境線に送り込み、ポーランドやリトアニアなどに政治圧力をかけていることに対し、EUは、ベラルーシの関係者に欧州渡航禁止や海外資産の凍結などの制裁を科している。古いところでは、国連安保理決議に違反して核開発を続ける北朝鮮やイランに対しても人的、物的な制裁が行われている。そればかりか、大国ロシアに対してもウクライナのクリミア自治共和国の併合などを理由に、欧米諸国は制裁を実施している。すなわち、21世紀の今日、「制裁」は非常にポピュラーな政治的手段となっているわけだ。

ロックダウンとワクチン接種の義務化に反対する抗議デモ集会(2021年11月20日、ウィ―ン市の英雄広場周辺で、オーストリア民間放送「OE24TV」の中継から)

ちなみに、外交の世界では、「制裁」といっても関係者の海外資産凍結や渡航禁止など、制裁の影響がその国の国民には悪影響を及ばないように配慮する「スマート・サンクション」や戦略的制裁まである。最近は、実質的な制裁というより、象徴的な意味合いが強い前者の制裁が主流だ。

中国発新型コロナウイルスがパンデミックとなり、世界で多くの感染者、犠牲者を出している。幸い、コロナウイルスへのワクチンが製造され、ワクチン接種が世界各地で急速に進展してきているが、ワクチンの接種を拒否する人々が至る所で接種を強要する政府に対して抗議デモを展開、オランダのロッテルダムでは19日、デモ参加者がパトカーに火をつけ、暴動となった。欧州で最も感染が広がっているオーストリアのオーバーエステライヒ州ではワクチン接種を拒否する人々がコロナ感染者の治療を行っている病院前で抗議デモをしている。

欧州ではコロナ規制が既に2年以上と長期化し、国民も落ち着きを失ってきている。抗議デモは次第に攻撃的になり、警察隊と衝突するケースが増えてきた。ウィーンでは20日午後、約4万人の市民が連邦首相府のある英雄広場周辺で抗議デモを行い、ワクチン接種を義務化する政府を「独裁者だ」と非難していた。オーストリアでは22日から4回目のロックダウンが約3週間の予定で始まった。

一方、コロナ禍を早急に解決し、中断している国民経済の回復を模索する政府側も次第に冷静さを失い、ワクチン接種を拒否する国民に対して、単にワクチン接種を受けるようにとアピールするだけではなく、「制裁」に乗り出す動きを見せてきた。

オーストリアのシャレンベルク首相は、「社会の少数派ともいうべきワクチン接種反対者が多数派の我々を人質にし、社会の安定を脅かしている。絶対に容認できない」と、珍しく強い口調で述べていた。同首相は4回目のロックダウンを表明した後、「ロックダウンは12月12日までで終わる。しかし、ワクチン未接種者を対象としてロックダウンはその後も続く」と表明し、ワクチン未接種者への「制裁」をにじませてきた。すなわち、政府の要請を無視してワクチン接種を拒み続ける国民に対して、「このままでは家族と集まってクリスマスを祝うことはできないぞ」という警告が含まれているわけだ。

国民の間では、ワクチン接種反対の抗議デモに参加する国民の身元をチェックし、ワクチン未接種者がコロナに感染、病院で治療を受けた場合、治療費は全額自己負担とすべきだ、といった声すら出てきた。

オーストリアでは来年2月1日からワクチン接種の義務化を実行する予定だ。義務に応じない国民に対して政府がいかなる「制裁」が可能かについて、同国憲法学者たちが中心になって検討している。「ワクチン接種の義務化は国民の自由を蹂躙する」として憲法違反と考える学者と、「社会の福祉と安定のためには国民にワクチン接種を強要しても自由の蹂躙にはならない」とする学者に分かれているが、主流は後者だ。

ところで、聖書の世界から「制裁」について少し考えたい。神は戒めを破ったアダムとエバを「エデンの園」から追放した。そしてアダムには日々の糧を得るための労働が科せられ、エバには産みの苦しみが始まった。これも立派な制裁といえる。「制裁」はけっして20世紀、21世紀に入って考え出された手段ではない。「制裁」は長い歴史を持っている。その意味で、ワクチン接種拒否者への制裁論は決して突飛な考えではないのだ。

問題はある。「制裁」で問題が解決できるかだ。ロシアや北朝鮮を例に挙げるまでもなく、国際社会から制裁を受けても自身の立場を変えないケースが少なくない。「制裁」を受けた側が「はい、分かりました」とは簡単にはいわない。とすれば、「制裁」を実施する意味が失われていく。「制裁」の効用問題だ。

神はアダムとエバをエデンの園から追放し、戒めを破ったことへの制裁を行ったが、その目的はアダムとエバが自身の間違いを認めて、再び戻ってくるためにあったはずだ。アベルを殺害したカインに対し、神がその行く末を配慮する場面がある。神にとって、「制裁」、「追放」が目的ではなく、改心、悔い改めが目的だったからだ。

具体的な世界に戻る。シャレンベルク首相はワクチン未接種者に対し、「今年はプレゼントの交換もできない寂しいクリスマスとなるだろう」と強い口調で語ったが、制裁でワクチン未接触者が接種を受けるようになるだろうか。政府側と未接種者の間の溝が益々深まるのではないか。

政治の世界では「制裁」は時として重要な手段だ。ただ、相手が制裁の圧力に屈して立場を修正したとしても、それが即問題の解決とはならない。「強いられたから受け入れた」といった思いが修正側に付きまとうからだ。一方、「制裁」を実行した側は相手がその立場を修正したことで制裁の目的を一応達成するが、完全な勝利として祝うことは難しい。なぜなら、相手が恨みを持っていることを感じるからだ。「制裁」には一定の効用はあるが、同時にその限界もある。ワクチン未接種者への「制裁」論はそれゆえに慎重に検討すべきだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年11月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。