感染状況が良好な時期にオミクロン株の発見の報を受けた日本は、外国人の入国禁止措置を導入した。現在でも続けている。類似した対応をとった諸国は、あくまでも一時的な措置だったという認識で、解除をし始めている。だが現代の「鎖国」政策で内閣支持率の上昇を勝ち取った岸田首相は、「やり過ぎ」くらいの対応をとる方針を打ち出しており、次の展開への示唆はまだ示していない。
残念ながら、この「やり過ぎ」路線は、作戦行動の目標設定としては、明晰だとは言えない。疲弊している日本社会に対するリスクの評価をへたうえでの目標の設定であるのか、議論が煮詰まっていない。あるいは議論がタブー視されて、回避されている。
「やり過ぎ」路線は、まず国土交通省による航空会社に対する航空券の新規予約の停止要請という形での日本人の帰国禁止措置を生み出した。これは「やり過ぎ」批判を受けて、後に首相の指示で撤回された。
「やり過ぎ」路線は、次に文部科学省による「濃厚接触者」の共通試験受験禁止の通達を生み出した。これは「やり過ぎ」批判を受けて、後に首相の指示で撤回された。
「通達行政」に慣れきっている中央省庁の官僚群にとっては、「やり過ぎ」路線が、実際にはどこに落としどころを見出すべきものなのか、むしろ判断するのが難しいのだろう。
厚生労働省は、客観的に感染予防策の対象であると言える「陽性者」とは別に、「(いわゆる)濃厚接触者」という日本独自の概念を操作して様々な行政措置を運用している。さらに濃厚接触者に準ずる「(いわゆる)接触者」というカテゴリーも新たに行政判断で作り出して、さらなる行政措置をとる根拠にするつもりだという。「濃厚接触者」は、かつて陽性者と同じ飛行機に乗り合わせた全乗客と定義されていた。しかし「受験における不利益」という一般の国民にもわかりやすい別の問題で足を取られてしまったので、機内における前後左右二列の乗客だけだと定義し直した。そこで今度は、いわば準濃厚接触者というべき新たな行政概念を作り出して「やり過ぎ」路線の継続を図ることになった。
このような混乱を見せている「やり過ぎ」路線の政策は、新型コロナ危機初期段階の2020年2月からの「日本モデル」路線の新型コロナ対策からの大きな転換になる可能性がある。政府分科会の尾身茂会長らは、オミクロン感染者全員を入院させる方針を転換させる必要性を政府に提言した。「やり過ぎ」対応は、現場に大きな負担を強いる。昨年の2月下旬に、尾身・現分科会会長や押谷・東北大教授からなる政府専門家会議が「ゼロ・コロナ」の不可能をいち早く洞察したうえで、限界のある医療資源の有効活用をふまえた方針を打ち出したことによって、日本の新型コロナ対策は一つの方向性を見出すことができていた。
だが今、従来の政策体系と「ゼロ・オミクロン」政策との関係が不明になり始めている。
「ゼロ・オミクロン」政策は、岸田政権関係者に、政権浮揚策として必須だと考えられているようだ。新規陽性者数の減少は、社会経済活動の平常化にとって、大きな意味を持っている。緊急事態宣言の再来は、誰も望んでいないのは確かだ。私も決してそのことを否定しない。だが、しょせんは「ゼロ」は不可能である。「ゼロ・オミクロン」政策は、潜在的には近い将来に政策の方向性を見失いかねない大きなリスクも抱えていることは、冷静に認識しておくべきだ。
「鎖国」政策は、オミクロン株の実態の解明と対応策の充実を図るまでの時限付き措置だとも説明されている。だが日本国民の誰も、対応策なるものが、いつ、どのように、確保されるのか、わかっていない。現実的な目標の感覚を見いだせないまま、「やり過ぎ」指示だけを受けている状態なのである。
日本は、「鎖国」の社会実験を行ったことがある特異な国だ。言うまでもなく江戸時代のことだが、第二次世界大戦後の占領期などもある種の「鎖国」体制だったと言える。「鎖国」時期に、日本は中央集権体制を固め、内需主導の経済体制の基盤を固めた。ただし江戸時代ですら、当初は人口は拡大し続けていたし、停滞し始めた後も、ほとんど減少しなかった。第二次世界大戦後の日本でも、人口は拡大し続けていたし、占領軍という外部世界とのチャンネルもあった。
そもそも「鎖国」は、戦国時代や軍国主義の「やり過ぎ」を緩和するために導入された措置だった。短期的には、内政基盤を固めて内需拡大を図る効果を発したが、長期的には、世界の最新動向からは取り残されてキャッチアップしかできない国を作り出した。
急激な人口減少と少子高齢化の中で、オンラインでの接点を頼りにして、高齢者を守るために「鎖国」体制をとっている点で、現代日本が直面している課題は、新しい。これは恐らく、ほとんどの日本人が感じている以上に深刻で長期的な影響を、日本社会の未来にもたらすだろう。
この状況で特にいっそう陰鬱な気持ちになるのは、現役世代や若者世代に感謝すべき立場にあるはずの日本の高齢者層が、どさくさ紛れに、むしろ苦情や説教ばかりを垂れ流しているのを見るときだ。
国際政治学者にとっては、不遇の時代だ。有為な若者たちとともに、個々人のレベルで、生き残る術を考えなければならない時期に来ていると痛感している。
もっとも国家の政策は、また別の次元で存在している。「鎖国」したいなら、それでもいい。本当に必要なのは、ではそれでどうするのか、というビジョンを持つことだ。その課題から逃げることは、許されない。