元弁護士から見た「大逆事件」

加藤 成一

文化勲章受章者・瀬戸内寂聴氏の逝去

作家で文化勲章受章者の瀬戸内寂聴氏が2021年11月9日に99歳で逝去された。

瀬戸内氏は著名な女流作家として数多くの文学作品を発表されたが、なかでも、大逆事件で死刑になった無政府主義者の「菅野スガ」を描いた小説「遠い声」を、筆者は今回初めて読み、衝撃を受けた。

著者の、小説全体の構想力、事実関係の洞察力、登場人物のリアリティのある人物描写、奥深い心理描写、文章表現力など、どれをとっても素晴らしく、読者に衝撃と感動を与える文学作品である。

菅野スガと無政府主義者・幸徳秋水

菅野スガは、1881年(明治14年)大阪市北区で鉱山事業家の菅野義秀の長女として生まれた。1902年「大阪朝報」の記者になった。1903年キリスト教の洗礼を受け、廃娼運動や男女同権の運動に参加するようになった。その後、「平民社」の堺利彦との交流を通じ社会主義者となった。

(左)菅野スガ (右)幸徳秋水
出典:Wikipedia

さらに、著名な無政府主義者で高知県出身の幸徳秋水と内縁関係になり、その影響を受け直接行動を主張する過激な無政府主義に傾倒した。幸徳との内縁関係以前には無政府主義者の荒畑寒村と内縁関係にあり、寒村が獄中にいるときに幸徳と内縁関係になり多くの仲間からも非難を受けた。その意味で、恋多き行動派の情熱的な女性であった。これは、女性の自由を求めるスガの「女性解放運動」が影響していると思われる。

同時代の社会主義者・山川均は幸徳秋水について、「幸徳さんは謹厳で、われわれ後輩に対しても礼儀正しく、地方から出てきた青年でも、帰りにはわざわざ自分でランプをもって玄関まで送っていた。話しぶりは決して流暢ではなかったが、深刻で魅力を持ち、青年を引き付けた。若い人たちの間に幸徳崇拝者の多かったのは必ずしも直接行動論すなわち理論上の判断にのみよるものではなかったと思う」(山川均著「山川均自伝」281頁昭和37年岩波書店参照)と述べている。

しかし、反国家権力、天皇制批判、暴力革命、資本主義廃止を掲げる過激な無政府主義運動は、明治政府の激しい弾圧を受けた。スガや幸徳らは、とりわけ「赤旗事件」の弾圧を契機として、天皇制絶対専制政府に対して強い敵愾心と復讐心を持つに至った。

「赤旗事件」とは、1908年6月東京神田で、直接行動を主張する無政府主義者の大杉栄、荒畑寒村らが、赤旗を翻し無政府主義万歳を叫び、警官隊と衝突して菅野スガを含め多くの社会主義者や無政府主義者が逮捕された事件である。

無政府主義とは

スガや幸徳が信奉した「無政府主義」(「アナーキズム」)とは、国家や政府など一切の権力を否定し、完全な人間の自由を目指す思想である。しかし、社会主義革命後の国家権力を否定せず、プロレタリアート独裁(「労働者階級独裁」)を行なうマルクス・レーニン主義(「科学的社会主義」)とは区別される。

フランスのプルードン、ロシアのバクーニン、クロポトキンらは、有名な無政府主義者であり、暴力革命により搾取と階級のない社会の実現を唱えた。日本では、幸徳秋水、大杉栄などが有名であるが、議会主義を否定する過激な直接行動主義が特徴である。この点で議会主義派の社会主義者である堺利彦や片山潜、山川均らとは異なる。

「大逆事件」とは

1910年(明治43年)5月25日、長野県の無政府主義者・宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚した。実際に爆裂弾を作り爆破実験をしたのは宮下太吉であった。

しかし、宮下は、部下である清水市太郎の妻と情交した上に、爆破実験の発覚を恐れ、清水に爆裂弾を預けた。そのため清水に密告され、宮下太吉のほかに、幸徳秋水、菅野スガ、新村忠雄、古河力作らも、当時の刑法73条「大逆罪」(「死刑」)の共同正犯として逮捕・起訴された。刑法73条では「・・・危害を加え又は加えんとしたる者は死刑に処す」とされていた。同条は戦後廃止された。

桂内閣は、この事件に強い衝撃を受け、これを機会に日本の社会主義者・無政府主義者を根絶するため、日本各地で多数の社会主義者、無政府主義者を一網打尽に逮捕し起訴した。そして、大審院(「最高裁判所」)での証人尋問もない約40日間のスピード裁判の結果、1911年1月18日幸徳やスガら24名に死刑判決が下され、1月24日幸徳ら11名が絞首刑に処され、翌日スガも絞首刑に処された。

しかし、ほかの12名は無期懲役に特赦された。これが世にいう「大逆事件」であり、社会を震撼させ、以後の社会主義運動に甚大な打撃を与えた。

「大逆事件」元死刑囚・坂本清馬氏の印象

無政府主義者として、幸徳やスガらと交流があった、高知県出身の活版職・坂本清馬氏(明治18年生)は、大逆事件で死刑判決を受けたのち無期懲役に特赦され、24年間服役し仮出獄して生き延びた人物である。

筆者は、学生時代の1960年(昭和35年)ごろ、大学学園祭の講演で、文字通り「九死に一生を得た」同氏の体験談を直接聴き強い衝撃を受けた。坂本氏は当時75歳前後の実直な人柄の方で、小柄だが頑丈ながっしりとした体格をされ、講演では強く「冤罪」を訴えておられた。

1960年当時は、いわゆる「60年安保闘争」の真最中で、大学内は学生運動で騒然としていた時代である。左翼系サークル団体が坂本氏を講演に招待したのである。

ちなみに、筆者は、若いころは保守系の自由民主党ではなく、革新系の日本社会党を支持していた。司法試験に合格し東京の司法研修所に入り司法修習生になってからも、左翼系の「青年法律家協会」の修習生会員として「ゲラ刷り」「機関紙発行」などの責任者をしていた。

衝撃的な死刑判決とその執行

「この事件はいつの間にか幸徳事件とか大逆事件とか言われているようだけど、とんでもないことだ。真相は、秋水、私、忠雄、太吉、力作の5人だけが知っていることであり、それも、秋水と力作は全く罪がなく、強いて言えば、私と新村忠雄と宮下太吉の3人の服罪だけで十分の事件なのだ。もちろん、私は死刑を覚悟でやったことだから、いささかの悔いもないけれど、この無法野蛮な裁判を受けてみると、黙って死刑にされるのは実に口惜しい。私も、新村も、宮下もせいぜい不敬罪くらいで十分の罪にすぎない。一審にして終審。初めから裁判の結果は決められており、形式だけだったのだ。」(瀬戸内晴美著「遠い声」新潮現代文学59巻156頁昭和55年新潮社参照)

「公判の席に現れた相被告たちの、一人一人の陳述を聞いていると、人間の哀れさ、いとしさ、浅ましさ、見苦しさがすべてそこにさらけ出され、私は毎日獄中に帰って泣かずにはいられなかった。最初から最後まで主義者として節を守り抜き、一瞬も乱れなかったのは、秋水と忠雄と私だけだった。公判廷の秋水の堂々とした態度には心底頭が下がった。秋水がはっきり、今度の事件から手を引いていたにもかかわらず、死刑を覚悟で終始自分を弁護せず、相被告の救出だけに弁じたことは、私にとっても最後の慰めであった。」(同書157頁参照)

「宮下太吉は最後に自分で自分の顔に泥を塗りつけてしまった。虚栄心のために爆裂弾を作ったものの、最後は恐ろしくなり川へでも投げたく思っていた。こんなもののためにこれほどの犠牲をつくり、死んでも死にきれないと叫んで、法廷で嗚咽した。哀れなユダよ。」(同書157頁~158頁参照)

「今日はどういう日なのか、森閑として物音という物音が聞こえない。空腹なのに気づく。報知機を思い切り引っ張ると看守が来た。「す、すみません。つい今日は朝から取り込んでしまって・・・つい、まだ・・・」「取り込み?」私がそう口にしたとたんに、覚悟していたはずなのに、全身の血が凍ったように動きを止めたのを感じた。「今日だったのね。やっぱり今日、だったんですか。」看守の全身がわなわなと震えだした。「私はこれからですか」看守はまだ口がきけない。「私は・・・いつ」「みんな、今終わって・・・もう暗くなってしまって・・・菅野さんだけは明日に」言い終わったとたん、看守は廊下を走り去ってしまった。」(同書158頁参照)

「目が覚める。布団を畳み最後の掃除をする。鉄窓に明け星が一つきらめいている。宇宙は美しい。今日を限りの見納めと思って見れば一層しみじみと美しい。顔を洗い、丁寧に髪を結う。この日のためにとっておいた新しい元結いでしっかりと黒髪の根を結ぶ。食事が差し入れられる。昨日と同じ小さな鯛が付く。食べないでおく。縊られたとき、胃の腑から何か出るのは嫌だから。看守が迎えに来る。看守はげっそりやつれ、眼のふちが黒ずんでいる。眠らなかったのだろうか。私の顔を見ない。泣いている。「いろいろお世話になりましたね」看守は返事も返せず、眉をすぼめて私の横を歩く。「最後だから聞かせてくださいな、みんな、どうやって・・・」「立派でした。皆さん、立派でした。宮下太吉が首に縄のかかるとき、無政府主義万歳を叫びました」ああ、ユダがまた回心したのか。私は太吉の霊もこれで浮かばれただろうと思う。教誨室に入る。教誨師が「なんでも言い残したいことがあれば言いなさい」という。「目的を果たせずにこうなったことが地獄の底まで残念です。一刻も早く、ゆかせてください」と答える。(同書159頁参照)

「物干しのような断頭台の上に立つ。背を伸ばし首をしっかりと上げる。震えていないことが自分を安心させる。ここを歩いて行った11人の顔が一斉に浮かぶ。目を閉じる。秋水が目の前に立つ。私にだけしか見せない笑顔でうなずく。手を伸ばし恋の初めのような優しさを込めて私の手を取ってくれる。私の手に秋水の手の温かさを生々しく感じる。いつでも熱っぽい掌だった。「すぐすむよ」秋水が私にささやく。首に冷たいものが巻き付く。細い蛇のような感触。躯が宙に飛ぶ。虹が廻る。無数の虹が交差して渦を巻く。秋水と飛ぶ。ふたり抱き合って、強く。さらに高く虹を負って飛ぶ。」(同書160頁参照)。

元弁護士から見た「大逆事件」

菅野スガは、死刑判決を受けた1911年1月18日から1月24日死刑執行前日までの1週間に「獄中手記」(「大逆事件記録第1巻・獄中手記」昭和25年実業之日本社参照)を書き残している。

その主たる内容は大審院判決の批判と法廷の描写であるが、天皇暗殺計画事件の共謀者は、手記では「私共5,6人」(1月18日付)であると記しており、1月21日には「幸徳、宮下、新村、古川、私、とこの5人の陰謀」と書かれている。しかし、1月23日には今度は「3,4人」に代わる。これを見ると、共謀者の数につきスガ自身も心が揺れ動き「確信」がなかったことを示している。

本件の弁護を担当した平出修弁護人は、「本件は、宮下太吉、菅野スガ、新村忠雄の3人により企画された」(「定本平出修集」昭和40年春秋社参照)と述べている。また、今村力三郎弁護人(「元裁判官・元専修大学総長」)は、「本件はスガ、宮下、新村が共謀したもので、秋水も首領としての責任はあるとしたものの、他の者たちの関与を否定している」(菅野スガ「ウィキペディア」参照)。

筆者は、「本件大審院判決」を読んだ。死刑判決を受けた幸徳、スガ、宮下、新村の4名については、「大逆罪」の犯意や共謀を認めるに足りる十分な証拠があったかどうか不明であるが、判決は相互の関係性を重視しているように見られる。また、同じく死刑判決を受けたその他の20名については、上記と同様に「大逆罪」の犯意や共謀を認めるに足りる十分な証拠があったかどうかは不明であるが、無政府共産主義者であることと、本件とを結びつけているように見られる。

ところで、刑法上の「共同正犯」は、判例によれば、行為者双方の間に意思の連絡のあることが必要だが、事前に打ち合わせ等のあることは必ずしも必要ではない(最判昭23・12・14刑集2・13・1751参照)とされ、「共謀」の範囲は広い。

しかし、幸徳、スガ、宮下、新村の4名についても、前記の通り、「大逆罪」の犯意や共謀を認めるに足りる十分な証拠があったかどうか疑問であるうえに、他の20名の被告人らについては、尚更のこと、果たして「大逆罪」の「犯意」や「共謀」を認めるに足りる十分な証拠があったかどうかについて、さらなる疑問がある。他の20名については、「獄中手記」で菅野スガ自身も強く「共謀」を否定しているのである。

ちなみに、1928年9月、小松台吉検事総長が思想係検事会で講演した秘密速記記録では、「証拠は薄弱だが、関係ないはずがない。不逞の共産主義者をことごとく検挙しようと決定した。邪推と言えば邪推の認定だが、法律を超越して処分しなければならぬ。」(鎌田彗著「残夢・大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯」2015年講談社文庫参照)と述べている。

元弁護士から「大逆事件」を見れば、本件裁判は慎重な「司法裁判」ではなく、迅速な 「政治裁判」であったと評すべきである。なぜなら、起訴された被告人が極めて多数であったこと、各被告人について証人尋問が必要であったこと、を考えれば、裁判は少なくとも3年ないし5年を要するからである。その意味で、僅か「40日」で終わった本件裁判は異常な裁判であったと言うほかない。

胸を打つ菅野スガの最後

時代が異なるとはいえ、幸徳秋水や菅野スガの過激な直接行動主義には共鳴できない。政治を変えるのは暴力革命などの過激な直接行動によってではなく、日本のような議会制民主主義社会では、国民の世論や選挙により平和的・民主的に政権交代が行われるべきだからである。

しかし、思想信条を超え、党派を超えて、死に直面した菅野スガの死刑執行直前の一人の人間としての究極の心情には胸を打たれる。首に縄をかけられたとき、「すぐすむよ、秋水が私にささやく」(瀬戸内「前掲書」160頁参照)は、スガと秋水との互いの深い愛情を表現し、涙を禁じえず感動的である。

これを見事に描き切った作家・瀬戸内寂聴氏の菅野スガに対する温かい愛情と洞察力を高く評価するものである。