ITブログ「ASSIOMA」を主宰される大元隆志さんのFBフィードに気になる記事を見つけました。
“Pinterest※注 が話題だ。そして、Pinterestの操作を紹介したブログも人気を集めている。しかし、使ってみるとわかるが、Pinterestは操作を覚える程の複雑さは無い。
「思考を放棄し始めた人々」。
そういった光景を見ていて、ふとこの言葉が浮かんだ。自分で調べるより、誰かが調査し「まとめ」てくれることを待つ。更にその「まとめ」が出来たことを教えてくれる人を待つ。
そこにビジネスチャンスが生まれつつあるが、果たしてそれで良いのかと、ふと疑問がよぎる。ITの潮流の一つにアンビエントな世界というビジョンが語られている。センサーネットワークが全てを検知し、人間が何もしなくても温度調整や、健康管理といたれりつくせりな生活を提供してくれる世界だ。
このような世界になることによって、ITを使えない人もITのメリットを享受出来る。その一方で懸念されているのが「人間が馬鹿になる」という点だ。そんなことは無いだろうと思っていたが、昨今の「思考を放棄し始めた人々」を見ていると、あながちその懸念は間違っていないかもしれないと感じる。
人間が思考を忘れ、機械が思考する。果たしてどちらが人と呼ばれる存在になるのだろうか。これからのITの進化は人を退化させるかもしれない。そんな事を感じる。”
(※注:Web上で気に入った写真をクリップして眺めるサービス)
これは私が最近感じ続けてきた問いでもあります。IT系のサービスはどんどん受動的になりつつあります。人々の行動パターンを分析して、サービスの受け取り手が何もしなくても最適化された情報や便益が提供されつつあるのです。そして、情報が溢れる現代においては、一人で消化が可能な情報量を超えているので、信頼出来る情報の発信者―キュレーターのパースペクティブ(視座)を借りることになります。
思考の放棄―、もしもその潮流がマジョリティになっていったら何が起こるのか。すぐれたショートストーリーを遺した星新一さんのお話に「異変」(ひとにぎりの未来収録)というものがあります。
電化生活が進んだ未来では、中央料理センターに料理レシピのデータが集約されています。そのレシピを用いて自動調理装置が調理を行い、各家庭に食事が届けられます。
いいにおいのコンソメスープ、魚のフライ、バタつきのパン、豚肉のソテーにサラダ。栄養があって味付けも良いこの献立を、ある一家は手をつけようとしません。それは何故なのか―ひと月前、中央料理センターのレシピデータが全て消去され、その後世界の家庭では、この唯一残った献立を食べ続けることになってしまったからです。
「考えてみると、だいたい料理を作ることを、すべて機械にまかせたのがいけないんだ。時には家庭で料理を作るという習慣を、われわれは残しておくべきだったのだ。」
最近このお話を、頭の中で繰り返し反芻します。もしかしたらそう遠くない未来、googleの自動運転が可能な自動車が実用化したら、運転免許がいらなくなって世界中の人たちは運転技術を忘れてしまうかもしれません。その時、運転技術を保存したデータを誰かが意図的に削除したらどうなるのでしょうか?
そしてキュレーションに関しても、誰かのパースペクティブを借りるつもりで、そのパースペクティブが思考が停止してしまった自分の思考領域を知らず知らずのうちに侵食しているかもしれません。
思考を止めないためには、ちきりんさんも主張するように「自分のアタマで考える」ことだと思います。そして作家の村上春樹氏も提唱するように、良質の物語に触れることでたくさんの仮説に足を通して、世の中に溢れる色々な情報や主張や物語への相対性を構築することです。
今後サービスがビックデータ革命と共に受動的になっていけばいくほど、問い直さなければならない命題だと思います。先日「自分のアタマで考える」ためにはどうすれば良いのか等、自分なりに検証した記事を書いてきましたが、おそらくこのテーマは方法論を含めて考え続けなければならないでしょう。
村井愛子 @toriaezutorisan