日本人がいまだ知らない「戦場」のリアル:『小隊』

これが前線に配置された自衛官の日常なのだろうか。これが過酷な戦場で実際に起きていることなのだろうか。そして、これが戦場を生き抜いた「兵隊」の偽らざる実感なのだろうか。

本書名の「小隊」は、北海道におけるロシアの猛攻に応戦する自衛官たちを描いたフィクションである。しかし、ウクライナへのロシアへの侵略は、このフィクションをフィクションで終わらせない相乗効果を本書にもたらした。

実際に戦闘が勃発する前の緊張感に欠ける自衛官の日常。壮絶な最前線での応戦。主人公が戦闘を終えた後に途上で見聞きしたことを反芻する場面。そして緊張感から解き放たれた瞬間に体が求めた欲求と、元自衛官の著者による描写は極めて具体的だ。

本当に、戦闘は起きるのだろうか。恐怖とか緊張とかではなく、ただ単純に面倒だった。

戦闘が始まる前は、ただただ日々の与えられた任務をこなすだけの日々が描かれる。

自分を支えるのは不撓不屈の精神でも高邁な使命感でも崇高な愛国心でもなく、ただ一個の義務だけだった。3等陸尉という階級に付随する、無数の手続きが、総じて一つの義務となり、自分を支えている。

長い期間、実践から離れた自衛隊において、トップの統幕長以下で戦争を経験した者は日本国の自衛隊には皆無である。一方で、戦闘が始まり主人公は突如修羅場に放り込まれる。そこでは、目の前で同僚自衛官が死ぬ。死にゆく者に、死者の尊厳など与えられない。そのような過酷な任務の中で、何とか訓練してきた通りに完遂しようと自衛官の本能が発揮される。しかし、それは高尚な理念ではなく、これまで積み重ねられた訓練に対する実務的な反応であった。

初めての戦闘だ。お互い訓練で日ごろから耳にタコができるほど聞かされていることを律儀にこなすしかない。報告と部隊の掌握だ。負傷したら応急処置をする、それで部隊の基礎動作が出来ている、と指揮官から、統裁部から評価される。だからなんだというんだ。誰もその後のことは教えてくれなかったぞ。

理論と実践が一致しないのは古今東西同様である。これまでの訓練で決定的に欠けていた実戦に直面し、主人公は狼狽する。

肉片というのは、赤い、バカでかい鼻くそみたいだった。~(中略)~壕内に転がる人肉は、バーベキューソースをつけた肉と、そう見た目は変わらなかった。

すべてがコマ撮りの連続で、ゆっくりと進む。それまで固く結ばれていた口が半開きになり、小銃弾のエネルギーが鉄帽と頭蓋の内側で膨張し、それが顔中の穴という穴から吐き出される。弾の破片か骨の欠片かが口から飛び出し、いくつかの歯を、肉もろとも身体の外に吹き飛ばす。

戦場で主人公が見た現実というのは、教科書が敢えて触れなかった「戦死」の実態である。しかし、戦場ではそのような悲惨かつ残酷な現実が、人の感情など無視するかのように容赦なく目の前に飛び込んでくる。そして、崇高な戦死への感覚を麻痺させる。テレビゲームの中で敵をバッタバッタとなぎ倒すかのような現実が、死者への敬意を薄め軽くするのである。

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私は佐藤まさひさ参議院議員の秘書として、全国の自衛隊施設を訪問した。幹部自衛官はもとより、著者のような現場のたたき上げの自衛官とも話す機会を数多く得た。しかし、私が見たのは記念行事で実施される訓練展示という名の模擬戦闘に過ぎず、あくまでの「イベントの出し物」だったのである。多くの来場者同様にカメラを構えて拍手を送っていたような、「娯楽」イベントではない。著者が描くのは、実際に戦争する最前線の自衛官である。

本書は「小隊」に加え、「戦場のレビタヤン」、「市街戦」の二遍も収録している。砂川文次の戦場文学に魅せられた読者は、続けて読まれたい。