豊臣秀吉の出生の秘密と語りたがらない父親の真相:『令和太閤記 寧々の戦国日記』

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あの世の北政所寧々が日経新聞に「私の履歴書」を連載したようなスタイルで、本文は割り切って多くの説の内で正しいと私が思うものにしてありますが、注釈で丁寧に最近の学説動向を細かく拾っています。そして、歴女に人気のイラストレーターであるウッケツハルコさんの挿絵が豊富に入ってます。

本日は、こんなスタイルで書いているというのを、「豊臣秀吉の出生の秘密」の部分を少し短縮してご紹介します。

木下藤吉郎の父親は、信長さまの父上でおられる信秀さまの鉄砲足軽だった木下弥右衛門といわれてきました。土屋知貞という江戸時代の旗本が書いた『太閤素性記』という資料に記されていることでございます。

藤吉郎の出身地である尾張国中村の代官、稲熊助右衛門の娘の養子である知貞が、養母などから聞いた話をまとめたものです。記憶間違いもあるでしょうし、『甫庵太閤記』などから影響された痕跡もありますので、細かい部分はあてになりませんが、ほかに藤吉郎の故郷の人から直接に聞いた資料はありませんので、貴重な証言でございます。

ただ、鉄砲足軽というのは、鉄砲伝来の時期からいってありえないことでございますし、木下が名字というのも、のちに藤吉郎が木下を名乗ったことから混同したのだと思います。

名字については、私の実家の名字だという方もおられますが、私が結婚したときに、藤吉郎は、織田家中で少し頭角を現しておりましたから、名無しの権兵衛でありませんでした。私は織田家に来る前に仕えていた、松下加兵衛さまにちなんだものと聞いております。

藤吉郎の出生については、本当のところは、私もよくわからないのでございます。なにしろ、秀吉も義母の「なか(大政所)」も秀吉の父親である弥右衛門の話になると口を濁しますので、あまり詳しく聞けなかったのでございます。

確かな話は、秀吉も義母も、弥右衛門の供養をしようなどと言ったことはありませんし、墓がどこにあるかも聞いたことすらございません。弥右衛門の親戚もおりません。二人とも、あまり良い感情は弥右衛門にもっていなかったのは確かななのです。

秀吉が尾張国愛知郡中村郷、つまり、現在の名古屋駅の南側あたりに拡がる中村区というところの出身だったことは確かです。

小田原遠征の途中に、小早川隆景さまや秀吉と同じ尾張中村生まれの加藤清正を現地に案内し、年貢の免除も決めておりますから、間違いないことでございます。その場所には、清正が創建した日蓮宗太閤山常泉寺というお寺が今もございます。豊かな清水があふれていた「秀吉公産湯の井戸」があったそうです。

もっとも、正確な場所として、豊国神社のあたり、もっと南の「弥助屋敷跡」も含め、3か所の候補があるらしいのですが、よくわかりません。

弥右衛門は農民でしたが、武士になろうとして戦場に出て怪我をしたこともあったようです。農民も自衛のために武器を持っておりましたから、正式に足軽にならずとも、傭兵として雇われたり、落ち武者狩りをすることもあります。武士と農民のはっきりした境界はなかったのでございます。

弥右衛門は夢を諦められずに、また、お手当欲しさに武器を持って出かけ、しばらく家に帰ってこないこともあったといいます。そして、いつしか本当に帰ってこなくなり、風の便りに死んだという知らせがあったようでございます。別の女性のところに転がり込んでいた、というようなことかもしれません。

なかも、だらしない夫に愛想を尽かし、茶坊主として織田家に仕えていたこともある竹阿弥という男と一緒に暮らすようになり、生まれたのが大和大納言となる秀長と、徳川家康さまの奥方となる旭でございます。

弥右衛門の死んだ年はよくわかりませんが、藤吉郎の姉の「とも」は、だらしなくても父親には違いないということで、供養をしていたようでございます。命日としていたのは、秀長が生まれたあとの年ですが、いい加減な話かと存じます。

そのあたりの事情は、私もあまり問い詰めるわけにもいかなかったのですが、秀吉や姉で秀次の母親であるともと、秀長や旭はあまり似ておりませんから、父親が違うというのは間違いないと思うのでございます。

貧しい百姓の子であることを誇っていた

藤吉郎が関白になるころ、なかの父は「萩中納言」だが、政争に巻き込まれて尾張に逃れ、なかは京へ上って宮仕えをして藤吉郎を身籠ったのだと言ったり、天下統一後には、日輪がなかの胎内に入って生まれたとか、日吉権現の生まれ替わりとも言いだしました。

御落胤(ごらくいん)伝説というのは、この時代、珍しくはございませんでした。茶々たちの近江浅井氏は、本来は聖徳太子のころに蘇我氏と対抗していた物部氏のようですが「仏敵」は嫌だと言って、領内にやって来た正親町三条公綱と浅井氏の娘の子孫ということにして、藤原氏を名乗っておりました。

誰もそんなことは信じていないのでございますが、古い門閥の方々に出世を納得してもらうためには、そういう噂があったほうが良かったという事情もあります。秀吉がただの農民なら関白になるなどもってのほかだが、高貴な方の御落胤である可能性があるなら仕方ないと思って、とりあえず納得する人もいるわけでございます。

戦国時代に生きた蓮如上人も、石山寺本尊の如意輪観音が生まれ替わったといわれていましたから、よく似たものでございます。秀吉が太陽の子とかいうのは、明や朝鮮などへの書状に書いておりましたから、中華文化圏での受けを狙ったものでもございました。

秀吉は、最後まで自分が貧しい百姓の子であることを隠したこともないし、むしろ、それを誇りにして自慢しておりましたから、そのことで秀吉が、いじましい人間であるかのように言われるのは、誠に、誠に残念なことでございます。

※ 日蓮宗常泉寺は、加藤清正創建で「豊臣秀吉の像」「秀吉産湯の井戸」「秀吉御手植の柊」がある。竹阿弥の屋敷の跡で秀吉も住んでいたようだ。「秀吉御手植の柊」の案内板には「小田原攻め凱陣の時、此の地に立寄りて一宿なさる」「11才の時植え置いた柊が繁茂せり」とある。

※ 明治16年(1883年)、愛知県令国貞廉平が「豊公誕生之地」と記した標柱を建て、その2年後に豊國神社が創建された場所がある。しかし『太閤素性記』には、秀吉が生まれたのは、上記二箇所がある上中村でなく中中村であるとされており、800メートルほど南にある。Goggle Mapでは「弥助屋敷跡」で検索できる。

※ 秀吉の出身階層についての諸説には強引なこじつけも多い。「連雀商人」と呼ばれる行商人だったから賤視される階層だったとかいうのもあるが、行商人が店を構える商人より下とも言い切れない。興味を引くのは、情報収集や土木技術に強かった「声聞師」と呼ばれる民間陰陽集団と関わりがあるのでないかという北川央氏らの推察である。

※ 薩摩島津の初代は、秦の始皇帝の子孫と称する古代豪族秦氏の末裔で、平安時代末に貧乏公家だった惟宗朝臣忠久。母方の祖母が、頼朝の乳母だったので武士となったが、室町時代になって子孫が頼朝の御落胤だったと言いだした。