英国王朝交代史➀:ノルマン朝とプランタジネット朝

八幡 和郎

イングランド王国を建国したのは、アングロサクソン人である。ただ、現在の王室の祖は1066年のノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)である。それから、今日に至るまでの歴史のうち、王朝の交代をだけ『日本人のための英仏独三国志』から短縮抜粋してアゴラの読者に提供したい。

ウィンザー城
出典:Wikipedia

イングランドの神武天皇はノルマン人のウィリアム征服王

エリザベス女王が日本へ来た時に、「わが祖先ウィリアム1世(征服王)のときから」と言ったので、日本人は驚いた。イングランドにはノルマン人による征服の前からアーサー王とかアルフレッド大王のような王様がいたはずだし、万世一系である日本と違って、頻繁に王朝が交代したと思っていたのでエリザベス女王とウィリアム1世が容易に結びつかなかった。

イギリスの文化には、ケルト、アングロサクソン、フレンチ・ノルマンという各民族の影響が重層的にある。ケルトの影響はアイルランドやスコットランドでより濃厚に残っているが、イギリス風の庭園にみられる自然への愛好とか、音楽好きはケルトの遺産だ。

ノルマン人の航海術の巧みさや工業技術の高さ、同じ種族同士の団結心と助け合い、集会での決定に従う潔さ、統率のとれた行動力、そして勇気はイギリス人が世界を制覇した原動力となった。

11世紀にイングランドを支配していたのは、デンマーク人の王朝で最後の王は、エドワード懺悔王だった。24年間国王で、修道士のような生活をしたがり、イングランドの名門貴族出身の王妃は純潔のままだったと言われる。ウェストミンスター寺院の創始者であるので、英国教会では聖王のように扱われている。

王位継承について気を持たすようなことを複数の人にいっていたようで、そのなかに、母親の兄弟の孫であるノルマンディー公ギヨームもいた。しかし、最後は、王妃の兄であるハロルド2世に譲るとしたので、ギヨームが異議を唱え、イングランドを武力で制圧して新しい王朝をつくったというのが経緯である。

ウィリアムは領地を与える約束を乱発しながら、ヨーロッパ中から騎士たちを集めた。ちょうどこのころ、ノルウェー王が北部に上陸した。ハロルドはこのため北部に移動し、勝つには勝ったが、勝利の喜びの最中にノルマンディー軍団がほとんど無抵抗でドーバー海峡を渡るのに成功したことを聞く羽目になった。そして、ヘイスティングズの戦いでノルマンディーの騎馬隊にイングランドの歩兵は蹴散らされてハロルドも戦死した。

このときイングランドの領主たちでウィリアムについたものはほとんどいなかったから、領地安堵は必要なかった。このおかげで、ウィリアムは家臣たちに領地を自由に分け与えられたし、国王の直轄領も全土の5分の1に達するなど財政基盤も確立できた。

こうして、イングランドでは、フランスやドイツに比べて国王の権威がはるかに早く確立したというわけである。フランスで彼らが得た文化的な素養に加え、フランス語の知識が英語をほかのゲルマン諸語と比べて語彙が豊富で国際的に使いやすいものにした。また、初期の王や貴族はフランス語を母国語として使い続けた。

やがて原住民たちの言語が使われるようになったが、英語の単語の約7割がフランス語起源だとされる。このことが英語の表現を豊かにし、ほかの言語との互換性を高めたことはイングランドにとって大きな財産となった。

ウィリアム1世は、ノルマンディー公国だけを相続させようとした長男ロベールと争い、ノルマンディーで軍事行動中に落馬事故で死んだ。遺体はノルマディー地方カーンにあるサン・ピエール寺院に葬られたが、フランス革命のときに荒らされて捨てられた。

フランスに住んだリチャード獅子心王だが英国で最高の人気

フランス南西部の女領主だったアキテーヌのアリエノール(英語:エレノア)は、謹厳な北フランス人ルイ7世と結婚したのだが、トロヴァトール(吟遊詩人)たちが愛の歌を奏でるロマンティックなボルドーの宮廷で育った彼女にとって夫は退屈極まりない人物だった。

この二人は第二次十字軍に参加して中東に出発したが、灼熱の夜に熱情をあおり立てられた彼女は奔放な振る舞いを繰り返し、ルイは我慢ができず、帰国すると本来は許されないはずの近親結婚でもともと無効という理屈をつけて離婚してしまった。

ところが、アリエノールはフランス中西部の領主で年下のアンジュー伯アンリと驚天動地の再婚をした。このころ、イングランドでは、ウィリアム一世の子供たちの相続がもめて混乱が続いていたのだが、三代目国王のヘンリー1世の娘マティルド(皇帝ハインリヒ5世の妃だったが死別)の子であるアンリがヘンリー2世として即位して安定した。

1189年前後のアンジュー帝国の版図
出典:Wikipedia

しかも、ヘンリー2世はイングランド王となる前に相続とアリエノールとの結婚などでノルマンディーからピレネー山脈までのフランス西部の領主となっていたし、さらに、アイルランドを併合し、ウェールズまで浸透していったので、とてつもない「アンジュー帝国」が誕生したのである。この王朝は「プランタジネット朝」と呼ばれる。

ただし、これでフランスの西半分がイングランド領になったというのは正しくない。なぜなら、ヘンリー2世はフランス語しか話さなかったし、ほとんどイングランドには住まなかった。シェークスピアの名作「ヘンリー2世」もその舞台はフランスであって、英語劇であることこそ不自然なのだ。

このヘンリー2世は有能な君主だったが、個性豊かな王妃や子供たちと延々と争わねばならなかった。とくに皇太子になったリチャード1世(獅子王)は騎士としての魅力にあふれた人物だったので、母アリエノールのお気に入りであり、この二人が組んでヘンリー2世に対抗し、それをフランス王フィリップ2世が支援した。結局、追い詰められたヘンリー2世は絶望のなかで死んだ。映画「冬のライオン」では、ピーター・オトゥールがヘンリー2世、キャサリーン・ヘップバーンがアリエノールを演じた。

リチャードとフィリップは、十字軍に一緒に出かけ、フィリップ2世は早々に帰国したが、リチャードは帰路の船が難破したりして予定が狂い、ドイツをお忍びで通過するときに見つかってしまい、皇帝ハインリヒ6世に人質として捕らわれて法外な身代金を要求されてしまった。

驚いたのは80歳になっていた母のアリエノールで、自ら交渉にケルンまで出かけ、国家予算五年分の身代金を払うことで交渉を成立させ、それを国民から集めた。その後、フィリップ2世はリチャードの弟のジョンをけしかけてリチャードを苦しめ、リチャードはアキテーヌでの戦闘で鎧を脱いだ隙にクロスボウで肩を撃たれてその傷が元で死んだ。

リチャードは騎士道の鑑といわれる。英国国会議事堂にはアーサー王伝説にちなんで「エクスリバー」と名付けた剣を高々と掲げた騎馬像が置かれている。しかし、リチャードは10年間の在位中、イングランドには半年しかいなかったし、遺言で遺体はヘンリー2世と同じフォントヴロー修道院、心臓がルーアン、脳と臓器はポワトゥーに置かれているから何か変な気がする。

※この原稿は、「日本人のための英仏独三国志」からの抜粋短縮版です。英仏独の王家の三つ巴の興亡を描いたもので、「日本人のための日中韓興亡史」はそれと同じ手法で日中韓の歴史を立体的に描きました。地域史の新しい試みです。