先週「アゴラ」で『暇と退屈の倫理学』を取り上げたところ、意外に多くのアクセスがあり、この本もアマゾンで109位まで上がった。これと昨日のエルピーダの事件は、無関係なようでつながっている。北尾吉孝氏も指摘するように
今回のように所謂「ポスト・インダストリアル・ソサエティ(脱工業化社会)」に相応しくない産業に血税を大量に費やして行くというのは全く持ってナンセンスです。[・・・]例えばエルピーダに投下された上記公的資金がiPS細胞(新型万能細胞)の分野に流れていたならば、どのような成果がそこに現れてくるのかといった楽しみを常に持つことが出来ていたことでしょう。
もう日本が「ものづくり」で輝く日は二度と来ない。主要な市場が国内にないのだから、国内でつくる必然性がない。ASCII.jpの連載の最終回でも書いたように、日本の製造業が世界を制覇したのは、補完的な部品のコーディネーションを長期的関係で行なう江戸時代型システムが偶然、自動車や電機などの2.5次産業に適していたためだが、その後ビジネスの中心は第3次産業に移ったのに、日本メーカーは変われなかった。
これから日本で成長するのは、国内の老人向け産業である。といっても、それほど悲観するにはあたらない。老人こそポスト工業化社会の中心だから、これに適応するイノベーションを実現すれば、日本はトップランナーになれるかもしれない。GDPベースではゼロ成長に近いだろうが、それは大した問題ではない。行動経済学の実証研究が一致して示すように、先進国ではGDPと幸福度にはまったく相関がなく、大事なのは所得より<意味>である。
最低限度の所得さえあれば、老人にとって最大の問題は年金より退屈だろう。サラリーマンは仕事をやめてから平均20年以上、何もすることがない。人々が退屈をきらうのは、おそらく狩猟民としてのDNAの中に変化への欲望が埋め込まれているからだろう。絶えず「脱コード化」する資本主義は、その変化への欲望を満たすシステムである。
しかし成長が止まった21世紀の日本が直面しているのは、人々がいかに退屈とともに生きてゆくかという新たなチャレンジである。この空白を埋める暇つぶしは、囲碁とか将棋とか俳句とか、江戸時代に発達した趣味が多い。それは低コストだが洗練されており、いつまでも飽きない。江戸時代こそ、人々が身分や住居を固定されて極限まで退屈した時代だったからである。
歌舞伎や浮世絵など世界にも比類のない文化を生み出した江戸時代は、ポスト工業化社会の暇つぶしの宝庫である。その精華ともいうべき吉原を根絶したのは惜しまれるが、その伝統は世界に誇るアダルト産業に継承され、アジアでも強い支持を受けている。世界に先駆けて老人大国になる日本は、製造業では役に立たなくなった江戸時代型システムを新たな比較優位の源泉にすることができるかもしれない。