宗教は「世俗化」に打ち勝てるか

日本では今、ゴールデンウィークの真最中だ。卓上カレンダーをみながら、「日本では有給休暇を利用すれば、10日間の連休も可能だな」と思った。3年余り続いたコロナのパンデミック明けの年だけに、多くの日本人がこの期間、海外に出かけるだろう。

ブタペスト訪問最終日に記念礼拝するフランシスコ教皇(2023年4月30日、バチカンニュース公式サイトから)

オーストリアでは日本ほどではないが、5月1日のメーデーが公休日だから、土、日、月と3連休だ。いずれにしても、通常の労働者にとって休日が多いことはうれしい。その点では日本人とオーストリア人の差はないだろう。

さて、ゴールデンウィークにこれから書こうとしているテーマはまったく相応しくないと分かっているが、当方の場合、コラムのテーマは長い熟慮の末に生れてきたということは少なく、突然頭の中に湧いてきたケースが多い。今回もそうだ。どうかご了承を願いたい。

テーマは、「宗教は世俗化社会で生き延びることができるか」だ。その前に、宗教と世俗化についてまとめてみた。

①冷戦時代の世俗化

<ハードの世俗化>
共産主義思想が生まれてきて以来、宗教は社会の隅に追い込まれていった。それだけではなく、共産主義者の為政者に恣意的に弾圧されていった。「宗教は人民をまどわすアヘン」といわれた。旧ソ連・東欧共産政権下ではキリスト者など宗教者は2等国民扱いを受けてきた。アルバニアでは1967年、エンヴェル・ホッジャ労働党政権(共産党政権)時代、世界最初の「無神論国家宣言」が発表された。ちなみに、その国では今日、若い世代を中心に宗教のリバイバル(信仰復興)が起きている「『アルバニア教』の神髄語った大統領」2021年5月4日参考)。

中国の習近平国家主席は、「宗教者は共産党政権の指令に忠実であるべきだ」と警告している。具体的には、キリスト教、イスラム教など世界宗教に所属する信者たちには「同化政策による中国化」を進めている。典型的な政治権力による「ハードな世俗化」だ。

<ソフトの世俗化>
共産政権と対峙してきた欧米西側社会は民主主義国家であり、キリスト教など「宗教の自由」は保障されてきた。新興宗教の台頭といった時代もあったが、資本主義社会では次第に金銭至上主義、物質主義、享楽主義が広がり、宗教はその活力を失い、形骸化していった。同時に、科学万能主義は宗教の不可視の世界を否定し、学校では無神論主義的教育が拡大していった。共産政権時代の無神論的世界よりも深刻な唯物主義が席巻するといった現象が現れてきた。歴史を通じて勝ち取ってきた「自由」は神を信じるためではなく、神を否定する自由となっていった(「無神論者の生年月日はいつ?」2017年10月28日参考)。

②ベネディクト16世の「非世俗化」

近世のローマ教皇の中でも最高峰の神学者でもあったベネディクト16世は2011年、「若者たちの間にニヒリズムが広がっている」と指摘してきた。欧州社会では無神論と有神論の世界観の対立、不可知論の台頭の時代は過ぎ、全てに価値を見いだせないニヒリズムが若者たちを捉えていくという警鐘だ。そのベネディクト16世は同年、フライブルクを訪れたとき、「教会を非世俗的にすべきだ」と呼びかけて、激しい議論を引き起こしたことがあった。

人は価値ある目標、言動を追及する。価値があると判断すれば、少々の困難も乗り越えても行こうとする意欲、闘争心が湧いてくるものだ。逆に、価値がないと分かれば、それに挑戦する力が湧いてこない、無気力状態に陥る。同16世によると、「今後、如何なる言動、目標、思想にも価値を感じなくなった無気力な若者たちが生まれてくる」という。この傾向は人口大国の中国の若者たちの間で既に低欲望主義、躺平主義(寝そべり族)という傾向で目撃される。ベネディクト16世にとって、ニヒリズムへの処方箋は精神的世界の支柱というべき「教会の非世俗化」にあるというのだ。

③フランシスコ教皇の「脱世俗化」

ブタペストを訪問したフランシスコ教皇は4月28日、カトリック教会の代表者の前で説教し、「たとえそれがキリスト教の精神によって明確に形作られているようには見えず、多くのことに挑戦的または疑問を投げかけているように見えても、実際に神の存在のしるしを認識することを学ぶことだ。同時に、福音に照らしてすべてを解釈し、世俗化するのではなく、キリスト教の預言の先駆者および証人として解釈することだ」と述べている。バチカンニュースはフランシスコ教皇の上記の発言内容を「脱世俗化」と呼び、フランシスコ教皇のキーワードと指摘している。

少し、説明する。フランシスコ教皇は「預言的な開放性」をもって現行の世俗的な社会の現象を解釈していく「脱世俗化の道」を提示する一方、ベネディクト16世の「非世俗化」は、世俗化社会に対して、閉鎖的、防御的な姿勢が濃い。同16世の非世俗化は「教会の修道院化」の再現となる一方、フランシスコ教皇の脱世俗化は、世俗化を克服・止揚できなければ、教会の崩壊を早める危険性が排除できない。聖職者の未成年者への性的虐待事件の発覚はその懸念を裏付けている。

「宗教と世俗化」問題について考えるうえで、チェコの著名な宗教社会学者であり神父のトマーシュ・ハリーク氏の考え方は非常に啓蒙的だ。同氏は、「世俗化は宗教を破壊こそしなかったが、変質させていった。今日の教会の主な競争相手は世俗的ヒューマニズムではなく、教会から解放された新しい形の宗教と精神性だ。教会が根本的に多元的な世界でその位置を見つけることは難しい」と語っている(「ハリーク氏『教会は深刻な病気だ』」2022年1月24日参考)。

宗教の世界と俗世界を「聖「と「俗」に分けて考えること自体、不適切かもしれない。俗の社会にも「聖性」があり、「聖」の社会にも「俗性」があるからだ。宗教は、組織、機関という枠組みから解放すれば、「聖」と「俗」の間で葛藤する宗教性を有する人間だけが残る。宗教の原点はその人間にあるはずだ。

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編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年5月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。