私がまだ中学生の頃、偏差値絶対主義の真っただ中で、日々の生活も学校も塾通いも進学と究極的には就職のための準備期間的存在でありました。その頃、教科書のレベルをはるかに上回るレベルの勉学とおびただしい数の試験、模試、そして各種ランクが年中発表され、一定ランクを維持できないと塾のクラスではランクを落とされるリスクを抱えていました。当然ストレスフルな日々です。その時、思ったことは今でも鮮明に覚えています。
早く大学卒業したいな。早く就職したいな。そうすればテストからも成績からも解放される、と。
当時は終身雇用が前提。つまり公務員も民間企業も同じ。公務員になれば給与は安いけれど恩給がつくぞ、民間は給与は魅力だけど競争社会だよな、でも仮に仕事ができなくてもクビになければ給与もらえるよなぁ、と。
それから高校生の時にこんなことも考えました。「俺、将来競輪選手になる。だっていつもビリでも年収1000万円が確保されているんだぜ」。伊豆修善寺に競輪選手養成学校があり、その横に高低差がある一周2キロの自転車レース場があり、普段は一般の人も走れます。自分の自転車を持ち込み、何度も走りました。この坂を登れば競輪選手になれるかもと。
終身雇用制度で原則的に解雇ができない日本のルールは労働者側にとっては「生活保険」のような制度だといってよいかもしれません。同じ釜の飯とはよく言ったもので同僚と一緒に過ごす時間が濃く、家族のような関係を築くことで落ちこぼれをなくすという美談も数多く生まれました。
これが変わったのがバブル崩壊。企業側が生き残りを賭けた点で大きく変わったのですが、雇われる側も変わったのです。この会社に一生いたくない、と。日本的ミーイズムが生まれる中で社畜に対する反感が一部で芽生えました。また、90年代を通して大手企業が次々倒産し、社会問題化する中で、会社に自分の人生を預託できるのかという単純な疑問が生じたのです。「うちの会社は大丈夫?」と。
今でも終身雇用に重きを置く経営者や労働者が多いのは知っています。全ての会社が倒産しなければそれでもいいでしょう。全ての会社が素晴らしい経営者のもとでガバナンスもしっかりしており、のびのびと仕事ができればよいでしょう。でもそんな絵にかいたような会社は一握りもないのです。私が中高生時代に思い描いた「社会人天国説」は現実社会では夢物語であったといってよいでしょう。それより飛んでくる罵声と灰皿をどうかわすか、こちら方が身を守るうえで重要だったのです。
小泉進次郎氏が解雇規制緩和を述べ、賛否両論になっています。まず一点クリアにしたいのは小泉氏は北米並みに解雇できる社会を作ろうとは述べていないのです。整理解雇の4要件の見直しを述べているだけで基本的にはフレキシビリティを持たせようとしているのです。
左派的な方からすればそれは解雇しやすい話ではないか、というかもしれません。が、今の雇用環境では一生の間に1-2度転職するのが当たり前です。絶対に解雇できないというのはわかりやすい例でいえば絶対に離婚できない夫婦こそが正しいことである、と言わんとしているのと同じように感じます。夫婦と会社勤めは相思相愛でないと成立しないのです。仮面夫婦や仮面社員あるいは、片思いでは無理。離婚して新しい人生が開けた方も多いでしょう。もちろん、雇われる側が辞めるのは自由、だから離婚の例えはふさわしくないと意見があるでしょうが、それではあまりにも片務的だと思っています。
私はアメリカとカナダで経営側として従業員と共に歩んできました。過去、残念な結果になり、解雇したことはあります。アメリカで一度に170名ほど解雇したことがあります。従業員を講堂に集め、30代半ばにもならない私が会社を代表して会社の惨状から解雇せざるを得ないことを述べ、これまでの協力に多大なる感謝の意を伝え、次の雇用先のあっせんをした旨を述べました。私は罵声の中、刺されるかと思いましたが、大きな拍手と従業員たちからの「世話になったな」という謝意があり、私の社会人人生の中で深く印象に刻まれた出来事となりました。
カナダで雇用をし続ける中で便利だと思ったのが3か月の試用期間という制度です。日本にも試用期間制度はありますが、根本的に意味が違います。カナダの場合はどんな事情でも労使ともに雇用関係を解消することが許容されているのに対し、日本は雇用条件や勤務評定に限定され、仕事ができないことを理由に解雇はできないと理解しています。
この3か月の試用期間は恋愛でいう「同棲期間」と考えてよいでしょう。お互い、一緒に住んでみて双方もう少し知ろうじゃないか、と。それでいいのです。会社は何が何でも雇うことが義務付けられているのではないのです。会社に貢献してくれるなら高い給与を払うという覚悟があるのです。
カナダでいろいろな方と話をしていると「ちゃんと仕事しないとクビになるので」ということをよく聞きます。スタッフレベルなら上司に言われたことを必ずこなすことでしょうし、マネージャークラスなら責任範囲の業務をどう取りまとめ、会社に貢献できたかを数字などで示すことが求められます。また顧客には「本日のサービスはどうでしたか?」というアンケートが頻繁に来ます。顧客が辛辣なコメントを書くとその従業員には罰点がつきます。つまり極めて高い緊張感の中で仕事をすることを求められます。その代わり給与も高いと思います。
日本で解雇ができる制度を取り入れるべきかという議論はいずれ避けて通れなくなります。理由は少子化で従業員が足りない事態になるので雇用の流動化を促進させ、リスキリングを含めた時代にマッチした能力と人材を適材適所として備えることが必要になるからです。例えば日本にはマスコミという名のもと、記者やフリーランスの物書きが非常に多く、安い報酬で一生懸命書いています。そのため、奇をてらいたいのか、功績を挙げたいのか、記者会見ではヤクザもどきの脅しをするような記者も目立ちます。私から見ればマスコミが多すぎる、よって薄給で雇われる物書きも多すぎる、だから記者会見は荒れ、品のない二流記事が蔓延するのです。ならば彼らをリスキリングでもっと違う世界にいざなうのはどうでしょうか?
つまり日本で多くみられるのは雇用の硬直化が時代の変化対応に極めて鈍く、従業員の意識の改善にもつながりにくいのです。大企業ならどうするかといえば数多くある子会社、関連会社に飛ばせばよいのです。実質には日本的解雇といってよいでしょう。金融機関にお勤めの方の悲哀物語を以前にもご紹介したのですが、それが本質的に何を意味するのか、私は問いたいのです。
会社勤めが面白くないと答え、それでも務めるのは生活のため、という現代社会の割り切り感が本当に人間社会を豊かにしているのか、政治家や知事や著名人がいかにも耳障りのよい話ばかりをするのが正しいわけではないのです。社会には流れがあり上り坂や下り坂もある、そしてそれは時代と共に全く違う価値観を伴うものである、と私は考えています。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年9月16日の記事より転載させていただきました。