ローマ・カトリック教会の最高指導者フランシスコ教皇は今月25日、慣例の一般謁見で信者たちに「悪魔を単なる集団的無意識の象徴や比喩と考えることは間違っている。多くの人々が悪魔は実際には存在しないと信じていることは奇妙な現象だ」と述べ、「悪魔の最大のトリックは、自分が存在しないと人々に信じ込ませることだと書いていた人(シャルル・ボードレール)がいた。私たちの技術化され、世俗化された世界には、魔術師、オカルト信者、霊媒師、占星術師、魔法やお守りの売人、そして残念ながら本物の悪魔崇拝のセクトが溢れている」と指摘し、悪魔に注意を呼び掛けている。
南米出身の教皇は一般謁見の場や説教で頻繁に「悪魔」について語るローマ教皇だといわれてきた。ただし、ヨハネ・パウロ2世とは違い、フランシスコ教皇自身はエクソシストではない。ちなみに、2014年4月27日に列聖したヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)は悪魔について、「悪魔は擬人化した悪」と規定し、「悪魔の影響は今日でも見られるが、キリスト者は悪魔を恐れる必要はない。しかし、悪魔から完全に解放されるためには、時(最後の審判)の到来を待たなければならない。それまでは悪魔に勝利したイエスを信じ、それを慰めとしなければならない」と語っている。
フランシスコ教皇は「悪魔は扉から追い出されても窓から再び入り込んでくる。信仰によって追い出されると、迷信と共に戻ってくる」と、悪魔の動きを比喩的に説明している。いずれにしても、ヨハネ・パウロ2世やフランシスコ教皇にとって、悪魔の存在は生きている人間と同じように存在しているわけだ。
フランシスコ教皇によれば、悪魔の存在に対する最も強力な証拠は、罪人や憑依された者ではなく、聖人に見られるという。すべての偉大な聖人たちはこの不気味な現実との戦いを報告しており、悪魔の存在は特定の時代に限定された現象と片付けることはできないからだ。また、世界の中の悪によって悪魔の存在を説明しようとする試みに対しても懐疑的だ。私たちの周りに見られる極端で非人間的な悪や悪質な行為には、悪魔が存在し、活動していることは事実だが、個々のケースで、それが実際に悪魔によるものであると確信を得ることは事実上難しい」という(以上、バチカンニュース2024年9月25日から)。
聖書では約300回、「悪魔」が登場してくるが、「悪魔」はキリスト教の専売特許ではない。キリスト教以外の宗教や文化でも「悪魔」について様々に考えられており、それぞれ独自の視点を有している。キリスト教において、悪魔(サタン)は堕落天使として描かれ、もともとは神に仕える存在だったが、神に逆らい、堕落して悪の象徴となった存在だ。聖書の記述では、悪魔は自由意志を持ち、神の創造計画を破壊しようとしている。ただし、悪魔は神と対等の存在ではなく、被造物の一つだ。悪魔は一時的に人間を誘惑し、試す役割を果たすが、最終的には神によって打ち負かされる運命にあるという。
キリスト教の神学にとって最も難解な問いは「なぜ神が創造した世界に悪魔が存在するのか」だ。神学的な観点からは、悪魔の存在は自由意志の結果であるという。神は被造物に自由意志を与えたが、悪魔はそれを使って神に反逆した。神が悪を直接創造したわけではないという。
イスラム教でも、悪魔(イブリース)は神に背いた存在だ。イブリースはもともと天使のような存在だったが、神に対して人間への服従を拒否したため、堕落した。イスラム教における悪魔も、人間を誘惑し、神の道から逸脱させようとする働きをする。アブラハムを「信仰の祖」とするイスラム教は悪魔についてはキリスト教とほぼ同じ解釈をしている。悪魔の存在は、信仰者に対する試練や誘惑の役割を果たし、信仰心の強さを試す存在として理解されている面がある。
一方、仏教ではキリスト教やイスラム教のような神と悪魔の二元論的な存在はないが、悪の概念は存在する。仏教においては、「煩悩」や「無明」(無知)が悪の根源とされている。これらの煩悩が人間を迷わせ、苦しみの輪廻に縛り付ける原因とされている。仏教の伝統にはマーラという悪の象徴的な存在がある。マーラは人間の悟りを妨げ、煩悩や執着を通じて人々を苦しみの世界に引き戻そうとする役割を担っている。仏教では、悪は個人の無知や執着から生じるものとされ、外的な悪の力というよりも、内面的な問題と考えられている。
ヒンドゥー教では、宇宙の調和を維持するために神々と悪魔(アスラ)の対立が描かれている。アスラは、神々(デーヴァ)に対抗する存在として、しばしば悪の象徴とされているが、完全に悪い存在ではなく、神々とアスラの戦いは宇宙のバランスを維持するためであり、善と悪の絶対的な対立よりも、宇宙的秩序(ダルマ)の維持を重視している。
参考までに、ゾロアスター教は、善と悪の二元論的な世界観を持つ古代宗教だ。アフラ・マズダーという善の神と、アーリマンという悪の神が対立している。アーリマンは悪と混乱の象徴であり、人類を破壊しようとしている。ゾロアスター教では、アフラ・マズダーが最終的に勝利し、アーリマンは滅ぼされるとされている。
フランシスコ教皇は「悪魔は君より頭がいい」と述べたことがある。ドイツの文豪ゲーテはその作品「ファウスト」で、メフィストフェレスを通じて「悪魔は決して眠らず、人間の弱さを巧みに利用し、常に誘惑の手を伸ばす存在」として描いている。私たちは、人間より利口で眠らず誘惑する悪魔と対峙しているわけだ。なお、ドイツ人哲学者ニーチェは「悪魔と戦う者は、その過程で自らが悪魔と化さぬよう気をつけよ」と警告を発している。
<参考資料>
- 「悪魔(サタン)の存在」2006年10月31日
- 「バチカンと『悪魔』の関係について」2014年7月7日
- 「ローマ法王『悪魔は君より頭がいい』」2017年12月15日
- 「悪魔『私は存在しない』」2021年6月23日
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年9月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。