「光る君へ」では道長の晩年まで紫式部が生きていることになっているが、実際にはもっと早く亡くなったのかもしれない。
『地名と地形から謎解き 紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)では、藤原道長・光源氏・紫式部の小伝を付録として掲載したが、そのうち紫式部伝を少し簡略化して紹介する。
嵯峨天皇の時代、藤原北家から冬嗣が出て主流となった。冬嗣の子のうち良房が摂関制の祖とされているが、兄である長良の子である基経が養子となり、その子孫が摂関家を継いでいる。
それに次ぐのが、良房の弟である良門の子孫である。紫式部の父である為時は、良門の子・利基の子孫である。為時は従五位下越後守、宣孝は正五位下右衛門権佐山城守でその生涯を終えている。政治家に例えるなら、代議士として数期務めた後、知事として二期ほど務めた程度の地位である。また官僚で言えば、本省の部長クラスから地方の出先機関の長としてキャリアを終えたような立場である。
越前の国府は現在の越前市(武生)にあったため、赴任の際には、大津から小舟に乗り一泊二日で塩津港に到着し、そこから敦賀を経て、湯尾峠を通り越前国府に至った。1年5ヶ月後、単身で京都に戻り結婚した。26歳の頃である。賢子(大弐三位)という娘が生まれたが、夫は結婚から4年後に亡くなった。「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」という歌は、その時のものとされる。
宣孝は現在の廬山寺になっている紫式部の邸宅に通っていた。『源氏物語』は夫の死後に書き始められ、それが評判となり、33歳頃には道長の長女で一条天皇の后となった彰子に仕えるようになった。「紫式部日記」は37歳頃から記されている。
紫式部の没年については、42歳(為時が越後守として赴任中)説と50歳頃説がある。一条天皇が譲位し亡くなった後も彰子に仕えていたことは確かだが、正確にいつまでかは不明である。
賢子は道長の甥(次兄である道兼の子、兼隆)と結婚して娘をもうけたが、後冷泉天皇の乳母となり別れたのか、その後高階成章(太宰少弐などを歴任)と結婚している。彼は受領として各地を歴任し、「欲関白」などと呼ばれる一方で有能であったとされる。
百人一首には「ありま山ゐなの篠原風吹は いてそよ人をわすれやはする」という歌が賢子のものとして入っている。母である紫式部とは異なり、前向きな性格であったようだ。
紫式部の一族は院政時代に側近として活躍し、その子孫から後鳥羽天皇の妃であり土御門天皇の母となる源在子を輩出している。そのため、紫式部は今上天皇の先祖の一人にあたる。
夫の宣孝は高藤の子孫の嫡流である。高藤は鷹狩りの途中、南山科の宮道家の娘である列子と結ばれ、胤子をもうけた。胤子は醍醐天皇の母となり、高藤は大臣となった。宣孝と本妻の間に生まれた息子の子孫は院政期に活躍し、甘露寺家、中御門家、葉室家、勧修寺家、万里小路家、清閑寺家、坊城家、芝山家などを興している。
勧修寺家からは後奈良天皇や後陽成天皇の生母が出ている。また、足利尊氏の母の実家であり、関東管領や米沢藩主家はその分家である。宮道家の跡地は現在、勧修寺となっている。
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山科のグルメといえば、全国のデパートに惣菜を展開する「わらびの里」が山科区東部の山里にある料亭である。同系列の「露中庵」という蕎麦屋も存在する。
街道沿いにはラーメン店も充実している。「夜鳴き屋」は老舗で、名にふさわしいオーソドックスな味わいを提供している。
トンカツの「熟成豚かわむら」は食べログ100名店にも選ばれている。
シチューの「炎の池」や洋菓子の「ローヌ」は地元で古くから愛されている老舗である。餃子の「王将」の本社も山科に所在している。
また、滋賀県大津市にある京阪大谷駅近くの「かねよ」は山科盆地内に位置する京都周辺の老舗で、だし巻き卵と鰻がのった「きんし丼」や鯉こくの定食が人気である。
その近くの「大谷茶屋」はひつまぶしで評判が良い。いずれも京都東インターから近くアクセスが便利である。