またぞろ出てきた民主主義の話

本文に入る前に「またぞろ」って何だ、と指摘されそうです。漢字では又候と書きますかね。辞書には「類似する状態が既にあるのに、他の同様の状態が新たに存在することを、一種のあきれた気持・滑稽感を含めて表わす語」とあります。私は時々古い言葉を使うと思います。それがおかしいのか自分でわからないです。

「拙者は… 候」とまではいいませんが、海外にいると日本語が画一的で言語的進化をしないのです。関西出身の人も普段は標準語をしゃべります。なので日本に来ていろいろな方と話をしていると知らない表現がいろいろあって「はっ?今なんておっしゃいました?」と聞き返すこともしばしば。そういえば私が新入社員の時に部長に口頭で報告していた際に「…若干感じます」と申し上げたところ、突如爆笑して「若干!!!、そんな言葉を君のような若い人が使うのか!」と。

さて今更また出てきたのが韓国尹大統領の罷免決議を受けた「民主主義の勝利」。ブリンケン国務長官が「韓国は民主主義の強靭性を示した」と記者会見で述べています。日経には「陰謀論に揺れる民主主義 韓国・尹大統領も『毒された』か」、毎日は「『代表を守れ』 走った議員秘書 韓国戒厳令で民主主義守った与野党」、東京新聞は「『民主主義勝利』韓国の市民歓喜 大統領派は頭抱える」とあります。基本的に民主主義の国家にとって民主=国民の声が国家運営に反映されることは極めて重要だということを言いたいのであります。

逆説的でありますが、そこまで民主主義の勝利と主張したいということは民主主義のあり方や議論があるということを言っているともいえるでしょう。

事実、地球儀ベースで見れば権威主義が世界の主流であります。英国エコノミスト誌が毎年発表する民主主義指数というのがあり、2023年の最新版では「完全なる民主主義国」は日本を含む24か国で世界の7.8%にとどまっています。そしてその中にアメリカは入っておらず、「欠陥民主主義」のカテゴリーにあります。それ以外に混合体制と独裁体制のカテゴリーがあります。私がこのブログで再三アメリカの民主主義って本当なのだろうか、と揶揄していたのですが、専門の分析でもそうなるのです。

民主主義の原点はアテネの民意による決議でした。ルソーの社会契約論もそれを継承しています。ではなぜ今、民主主義がとやかく言われるのでしょうか?私は民主主義の書籍を読み続けていて気がついていたことがあります。それはアテネの時代やルソーが活躍した18世紀(1700年代)は社会がまだシンプルだったのです。そこにある前提は「民は皆、均質である」という発想であり、極めて均一的な社会が前提になっているのです。故にルソーは多数決の原理は正しく、それに外れた人は考えが間違っているのだ、と平気で言えたわけです。ところが、プラトンは多数決は必ずしも正ではない、とします。それは師であったソクラティスが民衆裁判で死刑になったのは民意が間違っていたからであると考えたのです。

世の中、間違っていたことはいくらでもありますが、それに民意は気がつかないことは多々あるのです。それこそ天動説が覆され、地動説への動きは世の中を大混乱に陥らせながらようやく常識を覆したのです。ただ、それでもその時代は社会が単純化されたモデルだったと思うのです。

アメリカが民主主義の雄であったはずなのに「欠陥民主主義」に留まるのは何故か、といえば連邦政府の決定は大統領と政治家が多数決の原理を活用し、意図する社会を作り上げようとしているからです。もともとアメリカの建国の歴史を見直すと連邦政府というのはおまけで州の自治が非常に進んでいたバラバラの国家だったものを連邦という形態で串刺しにしたものです。カナダも全く同様です。そこには犠牲が伴うのです。国土が広いため、産業が均一ではなく、大都市がある州や資源が出る州など裕福な州や農業しかない州など連邦という串刺しでは当然不平等と不満が起きるのです。

トランプ氏インスタグラムより

古代ギリシャのアテネのポリスは人口が数百から数千人規模のものが200程度あったとされます。それを制度的に串刺しにはしていません。ここに私は現代の民主主義のいびつさを感じるのです。

2週間ぐらい前のブログでEUの行方について述べました。これも欧州各国を串刺しにしてルールを制定し、各国の自治と別にEUによるタガをはめるとも言えるのです。これは太古の世界から議論されてきた本来の「民の均一性の中に立つ民主主義」とは程遠く「一定の強制力をもって理念を追求する民主主義」とも言えるのです。

アメリカで富裕者による寄付活動が活発なのは一般的にはキリスト教精神が背景にあるのだろう、とされます。が、視点を変えるとアメリカの民主主義は既に機能を失いつつあるので一部の民=民間が主体となって一つの現代版ポリスを作ろうとしているのだとしたらどうでしょうか?ところでポリシー(政策)の語源はアテネのポリスから来ています。つまり一つの目的意識に対して民意を満足させるべくポリシーを団体というVehicle(NPOでも大学、企業、インスティテューション、地域団体、コミュニティなど何でもよい)を通じて実行させるのです。これは連邦国家の強制的エンクロージャー方式から細胞分裂型になってきているとも言えるのです。

アメリカの民主主義の行方についてはいろいろ議論がありますが、細胞分裂されたそれぞれの個体、団体、集団が一定の力を備えてギリシャ型のポリスを目指しているのではないか、という前提を私は考えています。発想の飛躍しすぎかもしれません。ですが、GAFAMといった巨大企業が育ち、国家を凌駕するようになりつつあることもこれで説明はつくのです。

民主主義は発展的変化を続けるはずです。ただし、主権在民という発想があまりにもブロード(広大)で理念先行でありこれを具現化するのが現代社会では実務的な困難が伴うので、今その在り方を模索しているのだ、ということでしょう。権威主義が増えているのはまだ発展途上にある国では民意が先進国ほどばらけていない中でカリスマ性のある指導者への期待度が高まり、権威主義による統治がしやすいとも言えるのではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年12月16日の記事より転載させていただきました。

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会社経営者
ブルーツリーマネージメント社 社長 
カナダで不動産ビジネスをして25年、不動産や起業実務を踏まえた上で世界の中の日本を考え、書き綴っています。ブログは365日切れ目なく経済、マネー、社会、政治など様々なトピックをズバッと斬っています。分かりやすいブログを目指しています。