先日ぼくも無自覚に使ってしまったが、「精神論」という語を目にして、よい意味にとる人は令和にはいないだろう。
なぜうまくいかないのか? という問いに「気合いが足りないからだ!」としか答えない、根性一辺倒みたいな指導法は、スポーツの現場でも退けられて久しい。いまだに唱える人は昭和の遺物として笑いものになり、パワハラで訴えられる。
個人的には、すごくいい変化だと思ってきた。ところが近年判明したのは、体育会系より「知的」だと自称する学者たちの世界でこそ、まだまだそうしたロジックが健在だという事実である。
国民「どうしてコロナは収まらないんですか?」
専門家「自粛が足りないからです!(キリッ」国民「どうしてウクライナは勝てないんですか?」
専門家「支援が足りないからです!(キリッ」
2020年からの数年間、ぼくらのメディアを席巻したのはこうした言説ばかりだった。しかも喋るセンモンカも、問答を垂れ流す編集者や番組司会者も、どうも「私は専門知で社会を啓蒙している!」と、心底信じているらしい。
要するに、足りないとされるのが「気合い」のような、測定不可能なものの場合はおかしさに気づくけど、エビデンスとかシミュレーションとか称して、一見すると数字があるっぽいものが「足りない」と言われると、昭和の精神論のトリックに引っかかる日本人はいまでも多い。
なんせ、対人接触が「8割減るべきなのに、7割だから『足りない』」とかでも、かなりの国民が騙されたのだ。だったら目下話題の年金改革も、
国民「どうして持続可能な年金制度にならないのでしょうか?」
厚労省「納付が足りないからです!(ドヤァ」
で、押し切れる。そうタカを括られちゃっても、しかたないすよね。コロナでもウクライナでも、君らその論理で納得したやんって話なんで。
なので、精神論も精神論で時代遅れだが、本当の問題は「足りない主義」にあるんだという話を、1月22日の『中外日報』が載せてくれた。馴染みがないかもだけど、お寺や神社の人が取る宗教関連記事の専門紙である。
なぜ、問題の所在を見抜けたか。寄稿では、気づくきっかけも書いている。
あなたが精神的な不調を抱えて、メンタルクリニックを受診したとしよう。多くの場合、精神科医はなんらかの薬を出すだろう。しかし、いくら服用しても状態は改善せず、むしろ苦痛が悪化する一方であったとしよう。
(中 略)
しかしあなたが懸念を訴えても、医師がこのようにしか応じなかったら、どうか。「症状がよくならないのは、薬の量が足りないからだ。改善しないなら前の倍飲み、それでも治らなければさらに倍飲めばいい。私は専門家だ。素人がネットで調べた程度でプロに逆らうな。私の方針を批判するなら誹謗中傷だ、名誉毀損で訴えるぞ!」
強調は今回付与
メンタルヘルスの現場なら、あらゆる患者に「藪医者」認定されるこの種の足りない主義者が、専門家と称してもう5年近く跋扈している件については、本noteの読者はよくご存じだと思う。
しかしなぜ日本ではこうも、学問を修めたと称する人がみな藪医者ばかりになってしまうのか。その背景には、明治以来の「国のかたち」がある。
手に入れにくいと思うから、長めに引くと――
明治以降の日本の近代化は、他律的なものだったとしばしば評される。黒船来航に象徴される帝国主義時代の外圧により、もっぱら「外国の基準に合わせる」という意識の下で、社会変革を強いられたとする趣旨だ。
結果としてそれからの日本人は常に、「まだ近代化が足りない」と急き立てる声を耳にすることになった。……自らの現状に十分な肯定感を得られず、いつも監視されネガティブな評価を下され続ける感覚は、たとえば統合失調症で体験する「幻聴」にも近い。
日露戦争後に夏目漱石が多くの小説で描いた、神経衰弱気味の主人公が、国民文学のモデルとなったのはそのためである。欧米列強に肩を並べるという目標を達成してもなお、「まだ足りない」の響きは耳を去らなかった。ちょうど社会的な成功者でも、いまメンタルクリニックのドアを叩く人が絶えないのにも通じる。
夏目漱石といえば江藤淳だけど、江藤には漱石をちょっとロマン化(偉人視)しすぎるところがあって、ぼくはむしろ山本七平の日本史論からこうした視点を学んだ。気になる人は以下の記事か、『歴史がおわるまえに』や『荒れ野の六十年』に収めた旧稿を見てほしい。
『中外日報』で挙げたのは1975年の『存亡の条件』だけど、現行の版では、下野した自民党で政調会長をしていた頃の現総理が解説を寄せている。で、実はちゃんと山本の主張の勘所を押さえているのが、なんとも言えない。
かつて日本人は、明治維新と太平洋戦争敗戦という、価値観がひっくり返るような国家的危機に際して、一大変革を成し遂げた。山本氏は本書のなかで、そのプロセスを批判的に分析している。
氏の指摘を要約すれば、「近代化や民主化といった模範解答を目標に対外的に満点の解答を作成し、それが満点であることを対内的に提示して指導性を発揮して、改革を推進する」ということになる。
石破茂「日本は今後どうあるべきか」
山本七平『存亡の条件』
ダイヤモンド社、2011年、2頁
目標を「○○化」という変化に置くかぎり、ぼくたちの社会はいつまでもゴールにたどり着かないので、必然的に足りない主義になる。明治の産業化や戦後の高度成長のように、人口と経済の両面で爆発的にフロンティアが広がる時期なら、「もっともっと」とおかわりを要求してもギリ回せるが、停滞期も続ければ国力は食い尽くされる。
ましてそうした変化の先に、目標にするほど立派な社会があるとは思えないのが、2020年代の世界だ。石破首相が今後ようやくトランプ大統領に会い、彼から満点の評価を得たところで、それを対内的に提示しても、本気で拍手する有権者はほとんどいないだろう。
明治の「これから近代化するぜボーナス」と、敗戦後の「ゼロからやりなおすぜボーナス」を使い切ったいま、ぼくたちは「まだ足りない」という幻聴を止めなくてはならない時期にいる。
『中外日報』への寄稿の最後は、こんな風に結んだ。多くの人がリハビリやデイケアのように、そうした「治療」に力を貸してくれるなら嬉しい。
山本七平が1970年代から述べていたように、むしろ私たちは明治以来の幻聴を止めることを考えねばならない。そのために必要なのは、驕慢な自尊心に陥らない「自己肯定」のあり方だ。
私たちは癒されねばならない。治癒の作業をこの間、幻聴を大声でわめき続けた専門家の手に委ねてはならない。世界の諸問題を解く名医だと自認してきた彼らは、実際には最重度の患者だったのだ。
彼らの病態を、むしろ私たちは治療の俎上に乗せてゆこう。近代に憑りついた呪詛を祓うことにも等しい、長い療養と回復の歩みは、いま始まったばかりである。
参考記事:
(ヘッダーは、セサミストリートの公式Xより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年1月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。