注目されていた天皇のビデオメッセージは、予想どおり生前退位を望むものだったが、テレビ局が全局(MXまで!)この「玉音放送」を流したのは印象的だった。天皇が生前退位することは江戸時代までは当たり前だったし、それが政治に実質的な影響を与えることもないのに、その「重み」はまったく変わっていない。
新憲法の制定当時の最大の焦点は天皇の地位を規定する第1条で、第9条にはほとんど反対がなかった。これには複雑な背景があり、天皇を処刑せよと主張する連合国の一部に対して、マッカーサーが天皇を守るために急いで憲法を書かせたというのが通説だ。
本書は憲法における天皇の位置づけが、第9条と似ているという。そこでは天皇は国家権力から棚上げされた象徴であり、これは戦力を棚上げした第9条と似ている。日米ともにこれは一時的な措置で、占領が終われば改正するという了解があったが、吉田茂がそれを翻したため、日本の戦力は棚上げされたまま今日に至った。
天皇も第9条も日本に深く定着し、それを少し変えるのにも巨大なエネルギーが必要になった。それは偶然ではなく、日本人の「古層」に適合しているからだろう。それは丸山眞男のいう、すべての権力を「みこし」としてまつり上げる日本型デモクラシーである。
ここでは稟議書に象徴されるように、すべての意思決定はボトムアップで螺旋状に行なわれ、棚上げされた最高権力者は部下の決定に対して拒否権をもたない。後醍醐天皇や織田信長のように実質的な最高権力者になろうとする者はすべて倒され、徳川家康のように「天皇から授かった権威」によってその権力を飾る者が生き残る。
これは日本独特の構造ではなく、天皇と将軍の関係は、中世初期のカトリック教皇と神聖ローマ帝国の皇帝の関係に近い。しかしヨーロッパでは、この関係は数百年にわたる宗教戦争で破壊されてしまったのに対して、日本は幕藩体制でこの関係を固定することによって250年以上も平和を守り、明治以降もその形を受け継いだ。
だから天皇に対して多くの人々が抱く無条件の敬意と、平和憲法に対する無条件の愛着は、国家権力から精神的権威を分離して棚上げする構造において共通している。これは国内の平和を守るシステムとしてはすぐれているが、国家が暴力装置であるという現実から目を背けることによって維持されてきた、と著者はいう。
戦後70年間こんなモラトリアム状態が続けられた日本は幸運だったというしかないが、幸運はいつまでも続かない。天皇がみずからこの「封印」を解いた今は、日本型デモクラシーの呪縛から、そろそろ自由になってもいいのではないか。