黒坂岳央です。
仕事でいろんな取引先やビジネスマン、子供たちの学校の先生や保護者とコミュニケーションを取る機会がある。その際、どうしても一定数、会話に困ってしまう、いわゆる「コミュ障」と対峙することがある。
世間的なイメージでいうコミュ障とは「人見知りで無口」という印象を持つ人も多いのではないだろうか。しかし、無口な人は思慮深く、言葉少なだが受け答えがストレートで円滑な会話ができることも多い。故に「無口=コミュ障」ではない。コミュニケーションに障害をきたしていないからだ。
そうではなく、まったく会話が通じない真のコミュ障とは「しゃべりすぎ」である。そして自分がしゃべろうと考えすぎるあまり、コミュニケーションが成り立たない障害が発生する。
本稿ではなぜ彼らは話しすぎるのか?について理由を独断と偏見で考察した。

Tero Vesalainen/iStock
コミュ障は話を聞かない
コミュ障は自分が話すことばかり考える。相手の話している時も次に自分が何を話そうか?しか考えないので、会話のキャッチボールが成り立たない。
先生:「お子さんの学習状況ですが…」
保護者:「うちの子、家ではこんなことしてるんですよ!実は小さい頃から〜(長話)」
先生:「なるほど…それで、学校での様子についてですが…」
保護者:「あ、でもね、やっぱり家庭での教育って大事で〜(話が脱線)」
このように問われている内容に回答せず、自分が言いたいことを延々と話し続ける。そうなると、会話は段々ズレていき、聞き手は疲弊していくのだ。
コミュ障は「自分がたくさん話したい」という欲求を持っているが、プライベートの会話ではそれでよくても、ビジネスやパブリックでそれをされると相手の時間と気力を奪うだけでただの迷惑行為である。
コミュ障は会話の本質を知らない
コミュ障が「何が何でもこれを伝えたい」という思いが非常に強い。それ自体は何も悪くはない。
だが、ある程度の年数を生きれば誰しもわかることが、「人はわかり合えない」という本質だ。コミュニケーションは「話せばわかる」と考えるのではなく、「本来、人はわかり合えない。だからこそ、少しでも伝わるよう話者はコミュニケーションを磨き、創意工夫をする」という前提で設計する必要がある。
ところがコミュ障は「たくさん話し、熱く語るほど伝わる」という誤解をしている。だから自分のターンでできるだけ多く、情熱的に伝えようとする。だが情報量が多いと逆に話は伝わりにくく、話量が増えるほど聞き手の集中力が減っていく事実を理解しないので、往々にして一方的に喋り続けてしまうのだ。
コミュ障は聞き手に責任を求める
筆者は「あらゆる会話の半分以上は話者に責任がある」と考える。もちろん、聞き手の責任がゼロではないが、それでも話者に比べれば「責任の比重はより大きい」という考えは変わらない。
コミュニケーションにおいて、伝わる努力や技術を使えるのはほとんどが話者である。
込み入った内容なら図解化する。
一文はできるだけ短く。
専門的な話には身近な例で例え話をする。
難しい言葉は簡単な言葉に言い換える。
こうした工夫をすることで、相手の理解度は高まる。一方で聞き手ができることは話者に比べるとあまりない。
ところがコミュ障は「話せばわかる」が前提なので、伝わらない状況を「聞き手が集中して聞いていないから」と相手のせいにする。
さらに「これはちゃんと伝えなければ」とますます話量を増やすという愚行に出る。根本的に伝える技術がないまま話す量を増やしても解決しない、ということを知らないのだ。
コミュ障は全てを口に出す
コミュ障の中には「頭の中の思考」をいちいちすべて口に出してしまうタイプもいる。これをされると聞かれたことにちゃんと回答しなければ!と相手の立場で考えられる聞き手を苦しめることになる。
「今の話は独り言なのか?それとも回答を求める質問なのか?」ということで逐一、相手のマインドシェアを奪い取り、時間をムダに使わせてしまう。また、脳内の言葉なので行き過ぎた表現や、相手の気持ちを無視した無神経な話をしてしまいがちだ。
本人は思考と会話を分けているつもりだが、言葉に出している以上、聞き手はそのすべてを会話として受け取るのでコミュニケーション齟齬が発生する。
思っていること、感じたことをそのまま無編集で出してはいけない。まずは不要な発言をしないよう意識することだ。
◇
コミュニケーションが苦手な人は「話さない人」ではなく、「話しすぎる人」であることが多い。話しすぎる人は、会話のキャッチボールができず、一方的に話を続けてしまう。特に「伝えたいことがあるからこそたくさん話すべき」と考えてしまい、結果的に逆効果になっているのだ。
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