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天皇皇后両陛下は4月7日、今も日本兵1万余の遺骨が眠る硫黄島に行幸啓なさった。翌年に戦後50年を迎える1994年(平成6年)2月に先の両陛下がご訪問なさって以来31年振りの、今上両陛下とって初めての硫黄島慰霊の旅であった。
1945年2月19日から3月26日まで行われた「硫黄島の戦い」から今年で丸80年が経つ。米軍上陸部隊111千名を日本軍21千名が迎え撃った戦いは、日本軍約20千名が戦死した一方、米軍側も死傷者約27千名のうち約7千名が戦死するという激戦になった。
米軍にとって数日で落とせるはずだった戦いが37日に及び、27千もの死傷者を出した訳が、栗林忠道中将が採った塹壕戦にあったことは広く知られる。また島から内地に出された数多の手紙に記された、その過酷な状況や家族と日本の行く末を案じる文面も人口に膾炙するところだ。
本稿では、内地にではなく米国大統領に宛てた硫黄島に因む3通の手紙に焦点を当てる。手紙の日付・差出人・宛先は下記のようで、日付の新しい順に手紙の由来と内容を以下に見てゆく。本稿は上坂冬子著『硫黄島いまだ玉砕せず』と平川祐弘著『米国大統領への手紙』を参考にした。
- 85年2月19日 マイケル・ジャコビーからロナルド・W・レーガン大統領へ
- 61年2月11日 和智恒蔵からジョン・F・ケネディ大統領へ
- 45年3月16日 市丸利之助からフランクリン・D・ルーズベルト大統領へ
ジャコビーの手紙
37日間の過酷な戦いの幕が切って落とされてから40年目の85年2月19日、「名誉の再会」と名付けられた日米合同の慰霊祭が硫黄島で開催された。当時16歳だった手紙の差出人マイケル・ジャコビーは、この戦いに参加した祖父に連れられその歴史的な場に立ち会った。
以下に紹介するジャコビーの手紙は、実はその年の暮れに国際ロータリークラブが世界の青少年を対象に主催した「平和への手紙コンテスト」に応募したものだった。選考の結果、ジャコビーの手紙は、45千通もの応募作品の中から国際大賞受賞という最高の栄誉に輝いた。
レーガン大統領閣下
私の人生に深く刻まれた体験を閣下に知って頂きたくペンを取りました。
私は祖父が硫黄島の戦いの悲惨と恐怖を語るのをよく聞かされ、海兵隊員当時の写真を見、書物も読みました。それが1985年2月に現実になりました。その戦場に連れて行ってくれたのです。米軍の輸送機が東京から南の小島に運んでくれました。日米の「平和式典」の場に着くまで誰もが無言でした。大きな記念碑の両方に日本関係者と米国関係者が座りました。式は両国語で行われ、僧侶が焼香を終えると牧師が説教し、軍楽隊が両国国家を吹奏しました。米国の将軍が式典に寄せられたメッセージを代読しました。
あの時あの場で何が起こったかを閣下に見て頂きたかったです。両国の未亡人や子供達が互いに近寄って抱き合い、身に付けていたスカーフや宝石などに思いの丈に託して交換し始めたのです。男たちも最初は躊躇いがちな握手でしたが、やがて抱き合うや声を上げて泣き出したのです。
ふと気が付くと、誰かが私の頭に帽子をのせてくれました。かつての日本軍人です。笑顔で自己紹介し、その軍帽をくれると言いました。祖父が近づいて話し始めました。若い私がこの場でこの体験を分かち合っているのを二人は喜んでいる風でした。何を話していたのか判りません。余りに感動してしまったから。
様々な思いが駆け巡りました。40年前、今は老人となった二人は摺鉢山で互いに殺し合おうとしていた。倶に天を戴かずと誓った敵同士が今、互いに抱き合っている。40年前、ここは砲丸や銃弾が飛び交い、死と憎しみに満ちていた。それが僅か40年の間にどうしてこのように変わり得たのか。
私には余人には知り得ない何かが判ったような気がしました。昨日の敵が今日の友となり得ることを、祖父や祖父の手を握りしめている旧日本兵によって、全世界の人々に示してもらいたいとさえ思いました。米国人と日本人の二人は各国の人々に平和の大使として共に語り掛けることが出来ると感じたのです。中略
祖国を愛する私は、求められれば祖国を守るために戦います。が、自分の孫が将来、その人を抱きしめると知っていたら、敵として殺すかどうか戸惑うでしょう。
私は集まった人たちの顔を覚えようと写真を沢山撮りました。WSJ紙はそんな私を「感動する祖父の姿を日本製ビデオで撮りまくる米国少年」との見出しで報じました。皮肉を込めたのでしょう。が、記者は肝心なことを見落としています。私が記録したのは私自身の感動だった。最年少の私は他の誰より長くこのことを記憶に留められます。その日の感激を決して忘れまいと決心したのです。
その日硫黄島で知ったことを出来るだけ多くの人と共有することが、私の義務であると感じています。ですから大統領閣下、誰よりも先ず貴方からと思い、ペンを執った次第です。
上坂は「平和への手紙」が三省堂の高校英語教科書に収録されたとし、平川本には桐原書店の英語教科書とある。が、いずれにせよこの手紙を読んだ日本人が少なからずいる訳である。
和智恒蔵の手紙
ジャコビー少年がその感動を忘れまいと決心した85年2月19日の「名誉の再会」は、実は和智(旧姓・大野)恒蔵(1900-1990)の長年にわたる取り組みによって開催に漕ぎつけた。
和智は旧制横須賀中学(現・横須賀高校)から海軍兵学校に進み(50期)、22年に卒業した。海軍での特務機関勤務の後、41年12月7日にはメキシコで対米通信諜報班長として米機雷部隊指揮官ファーロング少将の「パールハーバー上に機体見ゆ、練習に非ず」との打電を傍受している。
硫黄島へは44年3月に中部太平洋方面艦隊管轄の硫黄島警備隊司令海軍中佐(直後に大佐)として赴任した。当時の兵力は和智麾下の海軍1362名、厚地兼彦大佐麾下の陸軍4883名だった。ところが同年7月7日、同艦隊が司令部を置くサイパンが陥落、南雲忠一中将は戦死する。
東京から2350kmの距離にあるサイパン島の陥落は、日本本土が航続距離6000kmを誇るB29による空襲に晒されることを意味する。丁度中間に位置する硫黄島の中継基地としての重要性も一段と増した。が、和智は44年10月15日、その硫黄島から去ることになる。
サイパン玉砕を機に栗林中将麾下の小笠原兵団が強化され、市丸利之助海軍少将と航空隊井上佐馬二大佐が島に赴任して来た。この井上大佐との口論が和智転勤の原因だった。結果、戦いでかつての部下を死なせ、自分が生き永らえたことが、以後45年に渡る彼の活動の源泉となった。
和智は終戦の年の11月、慰霊のことを考えて寺の嫡子だった同僚を伝手に天台宗の僧として得度した。斯くて僧「寿松庵恒阿弥」こと和智恒蔵の活動が本格化するのだが、既に終戦直後の8月末にも、進駐した米海兵隊大隊長のヘイワード大佐に硫黄島への慰霊渡航を申し出ていた。
6年後の51年12月、遂にGHQから渡航許可が下りた。和智は47年11月に東京裁判のキーナン検事に、翌年3月にはウェッブ裁判長にも手紙を書き送った。手紙で彼は、硫黄島慰霊のために仏僧になったのに、戦犯として巣鴨に勾留され機会を奪われたと訴えていたのだった。
52年1月末、墨染めの衣に茶色の袈裟掛けで7年振りに硫黄島の土を踏んだ「寿松庵恒阿弥」は、翌53年6月には硫黄島協会を設立し、遺骨収集活動を始動する。得度といい協会設立といい、目的にためなら何事も厭わず邁進するのが和智という人物の性分だった。
なかなか進捗しない活動の中で和智が次に打った手が、ケネディ大統領への以下の直訴状だった。61年2月11日付のその文面は以下のようだった。
ご就任おめでとうございます。実は私はかつて駐日米国大使館を通じてアイゼンハワー大統領にも、ここに申し述べるのと同じような遺骨収集の嘆願をいたしましたが、今に至るも何らご返事を頂いておりません。中略
今年は硫黄島激戦の十七回忌に当たります。仏教では十七回忌というのを特に重視しており、私としては硫黄島協会を代表してあの島に放置されている遺骨の収集をお願いせずにいられません。今も遺骨があのように放置されたままになっているのは、人類に対する「重大な冒涜」と思われるからです。
この件に関しては、大統領のみならず、米国側の高官に事あるごとに訴えて参りましたが、相手にしてもらえませんでした。思い余ってここに直接大統領宛の文書をお送りし、胸の内を訴える次第です。どうか好意あるご配慮をお願いいたします。
(後編に続く)






