バカにバカと言えない令和

黒坂岳央です。

令和は不健全なほどのクリーンルーム社会になりつつある。人間関係では誰もが腫れ物に触るように言葉を選び、明らかな間違いや意見を出すことさえためらう空気が広がっている。

仕事でミスを指摘すれば「パワハラ」と非難され、厳しいフィードバックは「モラハラ」と断じられる。下手をしたら診断書を持ってこられ、「新人がやめたら困るから何も言うな」と逆に上司から注意を受ける。

もちろん、人格否定や明確に悪意のある嫌がらせは論外である。だが、仕事は「結果を出す場所」で、間違いを指摘することは必要なプロセスである。常識的な言い方に大きな反応を見せるのは弱者性を武器化した「逆パワハラ」でしかないだろう。

場所を移してSNSでも「傷ついた」「配慮しろ」と言葉狩りが横行し、もはや無難な事以外いえないおかしな世界になっている。

誰かの間違いを正すことすら躊躇される時代。そんな空気が成長機会を確実に奪っている。今や「忖度社会」が完成しつつあるのだ。本稿では、あえて勇気をもって一石を投じたい。

※本稿で取り扱う「バカ」という言葉は、個人の知能や人格を非難する意図は一切ない。あくまで組織や周囲に悪影響を及ぼす可能性のある「行動様式」を分析し、建設的な改善提案を目的で書かれた。

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指摘やダメ出しが必要な理由

まず、明確にしておきたいことがある。本稿で取り扱う「バカ」という言葉は、知能指数が低い人間を指す言葉ではない。IQの多寡を論じること自体が無意味であり、自分は差別など低俗で非生産的なことをするつもりもない。ここでいうバカとは「バカな行動」、すなわち誤った行動を指している。

たとえば、同じミスを繰り返したり、納期や約束を守らない。仕事の本質を見誤ったり、社会人として基本ができていないことをさす。

能力は固定値だが、行動は変動値である。つまり、本人の意識と努力によって改善可能な行動だ。

仕事は結果を出す場

仕事に対して「気持ちよく快適に過ごすこと」を第一に考える人が増えているが、これは本質を見誤っている。そうではなく、仕事は「結果を出す場所」である。結果を出すためには、できるだけ摩擦なく過ごすほうが好ましいが、あくまでその優先度は明確に劣後する。

これは筆者個人の価値観ではなく、会社は株主のものであり、ビジネスマンは資本主義というルールに則ったゲームをプレイしている本質だ。この本質から逃れるには、起業家や投資家になるか、資本主義でない国家へ移動するしかない。

この仕組みは冷たいように見えるが、極めて現実的でもある。資本主義の中で仕事をする以上、何よりもまず結果が重視されるのは避けられない。

新人は教育が必須

筆者のビジネスキャリアは、上司からの厳しい「バカ」の指摘によって形成されたと言っても過言ではない。新人になったばかりの筆者は「バカな行動」のオンパレードだった。

毎日、仕事をしにいけば朝から夜まで先輩社員や上司から指摘を受け続けた。だが、傷ついた!などとは思わない。結果を出すために必要なプロセスという解釈だったからだ。

実際、周囲の人間も時間とエネルギーを使って「新人を傷つける」という非生産的な活動をするほど暇ではない。「文句を言うのは一人前になってから」という認識だったが、いざ一人前になれたら誰からも注意をされなくなった。

今では上司や先輩に大変感謝をしている。彼らからプロとして厳しい指摘がなければ、今の自分はいなかっただろう。

新入社員は、まさに真っ白なキャンバスだ。そこから注意や軌道修正を受け続け、社会性を獲得していく。ときには叱られたり、間違いを指摘されるのは「傷ついた」と反発するのではなく、自分の伸びしろにベットしてくれたと感謝するべきだろう。

指摘から無視へと変わる現代

「バカな行動」が指摘されないまま放置されると、誰もが徐々に「モンスター」化していく。報連相を怠る社員は、チームの生産性を著しく低下させ、挨拶を軽視すれば周囲の空気を悪くする。会社はチーム戦を前提に設計されているのに、自分勝手で自分のペースで仕事をするのは迷惑でしかない。

周囲も新人が早期退職をしたり、退職代行を使われる実績ができることを恐れて、本人には何も指摘しない。これは戦略的な無視である。パワーバランスを利用した無視ならパワハラになるが、本人には簡単で市場価値の低い仕事を与えて、自分勝手に行動されてもチームが迷惑にならないようにする。

あくまで完全放置ではなく、指摘も改善提案もしない。本人もこの戦力外通告に気付かず、ワークライフバランスを謳歌することに満足するかもしれないが、広義の意味で存在を透明にされているのだ。そして徐々にキャリアが終わっていく。

行き過ぎた多様性は弱者を終わらせる

昨今、自由とか多様性という名のもとに、社会性を矯正しない社会へ足を踏み入れている。何でもそつなくこなせる人間なら、求められる行動を空気感で読み取り、社会性を獲得してモンスターにならずに済む。

だがそうでない人間はドンドン「お客様思考」になっていく。成長の機会を失い続け、年を取れば損をするのは本人だ。

何でもかんでも「人それぞれだから」「その人らしく」というのは考えものである。この言葉自体は間違いではないが、人間や社会のニーズは時代が変われど本質的な部分は同じで、そこからズレた生き方をすれば誰にも価値を感じてもらえなくなるだけだ。

別に個人の生き方はそれでいいが、仕事で価値がなければ働けなくなる。それなら早い段階で適切なフィードバックを受けて、軌道修正をすることは何より自分のためになる。

きりがない「傷ついた」に付き合いきれない

なぜ、現代社会は「指摘」をためらうようになったのか。その背景には、「自分は傷ついた!」という主張が、あたかも絶対的な権利であるかのようにまかり通るようになった風潮がある。しかし、この主張は本来おかしい。傷つくかどうかは、突き詰めれば個人の「選択」に過ぎないからだ。

心理学における認知行動療法では、「A(出来事)→B(解釈)→C(感情)」というモデルが提唱されている。出来事そのものが感情を直接引き起こすのではなく、その出来事をどう解釈するか(B)が感情(C)を決定するという考え方だ(もちろん、重度のメンタルヘルス疾患などは専門的治療が前提である。ここではそうした医療の必要性なケースを取り扱っていない)。

「傷ついた」と主張する文化が不毛である証明は簡単だ。例えば、「コツコツ貯金をして高級車を買いました!」という投稿に「欲しくても手に入らない私を傷つけた」といった批判があるとする。

だが、それを言い出すなら際限なく批判の対象を広げ、傷ついた本人も他の誰かを傷つけることになる。「傷ついた」と主張する人はスマホやSNSサービスを使えず、情報格差によって困っている人々を傷つけていることにならないだろうか? 「傷ついた」と主張する行為は拡大解釈すれば常に、「ブーメラン」になる。

「間違いは間違いと指摘する。伝え方には最大限の配慮はしても、伝えるという行為自体に配慮も躊躇も要らない」これが、ビジネスの現場における厳然たる事実だ。

権利ばかり主張する前に、やるべき義務を果たすこと。そして、その義務を果たした上で、役に立つことを仕事で証明すること。これこそが、令和のビジネスパーソンに求められる真のプロフェッショナリズムである。

 

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働き方・キャリア・AI時代の生き方を語る著者・解説者
著書4冊/英語系YouTuber登録者5万人。TBS『THE TIME』など各種メディアで、働き方・キャリア戦略・英語学習・AI時代の社会変化を分かりやすく解説。